何回言えば

 昨年、お十夜にちなんだビデオ法話で、「お念仏は自分がいいやと感じたらやめる」とお話しました。それが自分の中で異色だったのか、なんとなく腑に落ちていない感じがしていました。けれど今日、新たな視点を得てまとまってきました!

何度言えば分かるの!

今日もどこかで言われている言葉

 これ、よく子育ての文脈で「こんな言い方しても意味がない」とする例文です。自分の思い通りになっていない現実に対して、繰り返し言うことで打破しようとしているセリフなのですが、現実がそうなっているのは「繰り返して聞いていない」からとは限らないよ…むしろ違う原因があるんだよ…というやつです。
 どうして我々は「一度言われたらすぐ実行すべし」と思っているのでしょう?それは、現実にそういうことが多いのと、それが効率的だからですね。文書を作って「はい、プリント」のボタンを押してもプリンタが静かなままのとき、「おや?」と思って2度3度とボタンを押したことはありませんか?スマホのスクロールが反応しなくて、ついつい力をいれてスリスリしたことはありませんか?
 こういった、「一度伝えればそれが実現する」…機械ばかりでなく人間相手でもそうですが…ことは沢山おこります。もしかするとコミュニケーションの大半はこういった「依頼…オーダー…命令」なのかも知れません。私だって子どもに向けて「もう、お風呂入るよ」は一回しか言いません。

 けれど、言葉というのはそういった「命令」に属するものばかりではありません。特に感情に関わるものは、一度で伝えるのは非常に難しいです。「大好きです」とかね。わざとらしく、「え?何?もう一回言って?」とかニコニコしながら問い返すシーンは、マンガにも出てきますよね。

つまり、命令=一回=左脳系?の言葉と、感情=何度でも=右脳系_の言葉があって、使い方が違うんじゃないか、ということだね。

 そうなんです。最初の例は、命令を感情的な言葉の伝え方で伝えようとしている、のが問題なのでは?ということです。
 そして逆に、「あの時好きって言っただろ!」で繰り返し言えない恥ずかしさをカバーしているというのも、やっぱり「何度も伝えていくもの」という前提ゆえではないかと思うのです。

南無阿弥陀仏は気持ちの問題。心が欲する右脳系の言葉なのだから、何度唱えても問題ない。もちろん過去の浄土宗の系譜を探ってゆけば「いや一回でいいのだ」という人たちもおられます。けれど、この命令ばかり多い令和の世にあっては、「気持ちの問題なんだから、一度唱えるのとたくさん唱えるのは違いがあるよ」と言うべきだな、と思うのです。

前の記事

歳を重ねて

次の記事

御忌に出仕