涅槃会に思う

 来たる15日は涅槃会(ねはんえ)で、御釈迦様がお亡くなりになった日です。これがどんな意味を持つのか、幼稚園でも「どうやって子どもに説明しようか」悩みどころなのですが、綴ってみたいと思います。

お釈迦さまが入滅された2月15日に勤める追悼報恩のための法要です。お釈迦さまのお誕生を祝う花まつり(灌仏会、4月8日)や、さとりを開かれたことを記念して行う成道会(12月8日)と並んで、お釈迦さま三大法要の一つに数えられます。

浄土宗公式ホームページ

 御釈迦様が亡くなるということは、人生の師・先達を失うことです。それまでは直接お話もして悩みや疑問を問う事も出来たけれど、それができなくなる。それにあたり、御釈迦様は有難くも教えを残して下さいました。お亡くなりになる前の大病が癒えたとき、お弟子さんが「何か今のうちに遺言はございませんか?」と問うたところ、「私はすでに、誰に対しても全ての法は説いた。弟子に何か隠すような、秘密の奥義みたいなものはない」。続けて

汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように

Wikipedia 釈迦の項目

 という「自灯明・法灯明」というお言葉を残されました。

さて、法灯明とは「御釈迦様の残したおしえ」のことですが、「自らをより処とする」はどのように捉えたら良いでしょうか?「自分の好きなようにしなさい、自分さえ良ければいいのです」ではないことは確かですが…

個々で注目したいのは、続く「他のものをより処とせず」ではないでしょうか。「誰かが言っていたから」ではない。自分の行動には自分で責任を取れ。少なくともその気概でいなさい。そういう意味ではないでしょうか。

 更に、その「自分」とは少なくとも御釈迦様に共感し、同じように悟りを開きたいと願ってきた、修行も積んできた自分である筈です。自分の行動原理を知り、煩悩から離れようと努力してきた自分である筈です。「煩悩まみれの、そのままの自分でいいよ」ではない

で、幼稚園ではどうしているんだ?そのまま伝えても難しかろう?

そうなんです。涅槃会の集いでは、このあとビデオを上映するのですが、これが「キサーゴータミー」の話です。有名なのでご存じの方もおいでかと思いますが、概略は

釈迦が、我が子を亡くしたキサーゴータミーという女性に対して、「死者を出したことの無い家からカラシの種をもらってきたら、その子が生き返る薬を作ってあげよう」と言う場面がある。キサーゴータミーは家々を回り、どの家にも生老病死というものがあることを知って、釈迦の弟子となった。

Wikipedia 方便の項目

 我が子を失い、悲しみの余り諸行無常が分からなくなった女性に、自ら行動させることで四諦を見つけさせる話です。

 ちょっと横道に逸れますが、丁度最近、hasunohaでお子さんを亡くされた方の問答がありました。余りに辛いことと感じ、私からも回答させていただきました。キサーゴータミーの時には御釈迦様もおいででしたし、村の人たちも「そうかい、お子さんが亡くなったのか。ウチは…」と1人1人対応して下さいましたが、現代ではそんな人がノックしてきても、恐らく誰もまともに取り合ってくれないでしょう。本人も「まさかそんな魔法みたいな事、ありえない」と受け入れないかも知れません。キサーゴータミーの時は、誰かが「そうか。それは悲しい事だな」と共感してくれる人もいたかも知れませんが、現代はネット上で出会うより無いのかも知れません。誰かの苦しみに多くの人が触れてくれない現代は、果たして幸せなのか…と考えたりします。

 キサーゴータミーは、御釈迦様の方便によって、自ら行動し(自灯明)、御釈迦様の教えを理解(法灯明)した。そして恐らく救われていった。私も願わくばそんな役割を果たしたいと思いますが、まずは「自分の行動には自分で責任を持つ」と「行動の規範は仏教の教えに沿っているか」を忘れずに行きたいと思います。

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