「産んでくれ」とは言ってない

 今回、浄土宗東京教区で行っている「3分間法話」の予定表をいただきましたところ、私のこの放送が2月13日からであると書かれていました。全くの偶然なのですが、これ私の誕生日なのです。ですから、ちょっと自分ごとではありますが、私の誕生日にまつわる話をさせてください。
 私は深夜に生まれたそうです。そして翌朝は大雪だった。昭和の時代ですから、父親の立ち会いなどなく、翌朝父が病院にやってきて、母を労ってくれたとのこと。そして私が産まれた事をとても喜んでくれた、という話を聞きました。
 実はこの話を聞いたの、既に父がお浄土へ行ってしまった後なんです。けれど「私の存在を父が喜んでくれた」というのは、今になっても私を支えてくれていると感じます。

さて、世の中にはその逆と言いますか、「産んでくれ、と頼んだ覚えはない。生まれなければよかった」という言葉を発する人もいます。なかなか高度な文章表現ですね。そんな言葉に出会ったら、まして我が子からそう言われたら、皆さんどうされますか?

 

私だったら…まずは、「そうか、生きている中では辛いこともあるもんな。何があってそう思ったんだ?」と事情を聞いてみると思います。子どもの抱えている問題を明かし、一緒に解決に向かおうという姿勢です。

 

 そして次に、因縁を説くでしょう。難しくはありません。「人間の気持ちは、自分の環境に大きく左右される。今はそう思っているかも知れないが、それとは反対な事を、強烈に、生きたいと全身で泣き叫んだこともあるんだよ。覚えてもいないだろうが…」と。

 そうです、赤ちゃんの時ですね。あの全身を真っ赤にして訴えている姿は、まさしく「私は生きたいんだ。手を貸してくれ!」というメッセージですね。「少なくともあなたは、生きたいと主張していた時もあるし、今みたいに生まれなければよかったと思っている時もある。人間の気持ちは180度だって行ったり来たりするんだよ。

 すると恐らく…「もう今は赤ちゃんじゃない。一人前の、自分で考えて決める人間だ」と言うでしょう。でも、それって本当でしょうか?いつ一人前になったのでしょうか?オフがオンになるみたいに?

 実は人間は、いつまで経っても不完全なのだろうと思います。少なくとも、泣き言を言っている時点で一人前というのはおかしくありませんか?
 そのツッコミは置いておくとしても、人の発する根底のメッセージは、臍の緒が切れて以降、じつはいつまでも同じなのではないかと思うのです。「私は生きたいんだ!手を貸してくれ!」と。

 南無阿弥陀仏も、それと同じだと思います。「阿弥陀様、助けてください」と。これ、決して「死にたいです」と言っているのではありません。「いずれ来る死の時を、安心して迎えられますように。それまでの時間を安心して生きられますように」…という意味なのではないか。

どうでしょう。「生きている間に発しているメッセージの根本は、これではないか」という考えを披露させていただきました。

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