心の底から

 「心の底から嬉しく思います」なんて、大袈裟で間違った言葉遣いだと思う。しばらく前の問答で、こんなのを見つけた。

「日々こうして生きていられる事が幸せな事で感謝の心をもちなさい」という言葉を聞いた時、そうなのだろうなとも思いますが、心の底から感謝しているかと言えば嘘になると思います(そもそも心の底からという感覚も分かっていないかも知れません)。

誠実に生きるために(hasunoha問答)

 美しい言葉には何か正しさや憧れる気持ちが湧くのだが、しかし言葉の無垢さに付いていけないことがある、と感じてしまうのだ。この質問者は私からは非常に誠実に見える、なぜなら「言葉通りに振る舞うこと」の窮屈さをしっかり感じ、吐露できているからだ。
 自分が嬉しい、喜びを感じているのは是としても、それが「心の底から」であると何故分かるのだ?何故そのような大袈裟な言い方をするのか?その言葉の純粋さに紛れる自分の心を見ようとしないことで、かえって自らを誤って認知しているのではないか?

「心の底から嬉しく思う」というのは、「混じり気なしの、ピュアな」ということであろう。しかし私は生まれてこのかた、ずっと悲しさ苦しさを捨てたことはない。辛さや痛みを無くしたことはない。それらは私の一部であり、ときに土台でさえあったりする。自分が「こうあろう」と決心したその根本には、何らかの痛みがあるのだ。だから、嬉しいとは思っても、それは痛みがあってのものだと(信じている)。痛みに酔っぱらい、誰かに慰めてもらおうなどとは思わないけれど、痛みを無視して忘れて「心の底から」なんて言葉に自分を当てはめたくもない。酔っ払っているというのが「正体を失う」ことであるなら、「心の底から」はみな酔っぱらいだと思う。「本当に?心の底から?」と他人に尋ねる人は、言葉の使い方を間違っているのだ。

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