微笑みは去らない

人は去っても、その人の微笑みは去らない 人は去っても、その人の言葉は去らない 人は去っても、その人の温もりは去らない 人は去っても、拝む手の中に帰ってくる

ひととき 私をささえる言葉』中西智海

 こちらは、浄土真宗本願寺派の方だそうですけれど、たいへん味わい深く しみじみとする詩です。
 私なりに解釈すると、「その方が目の前に居なくなってしまったとしても、その方に微笑んでもらった自分というのは変わらない」ではないかと。例えが大きいですが、「徳川家康はもう亡くなってしまったが、家康の作った社会の仕組みや示した人間観は、今でも私のどこかに影響を残している」というのと同じはたらきです。肉親であればなおのこと、自分に微笑みかけてくれたこと、言葉をかけてくれたこと、暖かく触れてくれたこと。そういった慈しみの心は、今でも私の中にありますよということを表していると思います。

 然るに一方、人生相談ではこんな話も聞かれます。「もう別れてから何年も経つのに、ひどいことをされた思いが今でも消えないのです」と。その人は過去の人。もう目の前にはいない。けれど「その人の苦々しい顔や言葉や冷たさも去らない。トラウマだ」ということになるでしょうか。彼氏彼女ではなくとも、親からそのような扱いをうけた…という話も散見されます。

それを、どう扱えばよいのでしょうか。メカニズムは同じ。だけど内容が全く異なる。

 これは、最後の句「拝む手の中に帰ってくる」をどう考えるか?の問題なのでしょうね。誰が帰ってくるのかと言えば、それはもちろん「去った人」です。「帰ってくる」のですからそれ以外はない。ではその人が「100%いつも微笑んでいたのか?優しい言葉だったのか?温もりをもって包んでくれていたのか?」と言えば、実はそれも怪しいものです。なぜなら皆凡夫なのですから。
 とすると、これはどう考えればよいのか…それは「亡くなった方が今は仏様になっている、ご先祖様になっている」ということを見逃してはならないのだと思います。極楽へ行くと、阿弥陀様のもとでお説教をいただき、自身も仏様としての修行を積む。そうして凡夫としての至らなさを捨てつつある方として帰ってくるのです。私たちはそういった構えで「拝む手の中に帰ってくる」を受け止めなければならないと思います。
 であれば、「ひどいことをされた」というのも程度問題と言えます。100%ひどいことしかない人間関係というのも、また有り得ないのですから。

ということは、こちらが「拝む」という姿勢で関わっていくことが大切なんだね。たとえ亡くなったという別れ方でなくても、「あなたを拝む対象として見ています」とできるか否か。この人も凡夫であり、仏道修行の道半ばであると捉えられるか。そんな人間観が持てると、いいなぁ。

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