自信教人信

「自ら信じて、人をして信ぜしむ」。

浄土宗には、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」という言葉があります。続いて、「難中転更難(なんちゅうてんぎょうなん)」。自ら信じ、人にもその教えを伝えることは、難しい中でも、さらに難しいことだ、と善導大師は仰っています。

先日、その言葉が身に染みる出来事がありました。電話でお坊さんに相談する場でのことです。

相談者は、私より年上の方でした。「若い頃は仕事で成果もあげた。結婚もした。子どもも育った。けれど今は年老いて、病も不治と診断され、楽しいことが何もない。」そうお話し下さいました。

 私は、今までに味わった「幸せ」を具体的にお伺いしながら、そうと思える範囲を少し広げてみることはできないでしょうか、とお伝えしました。「朝に目覚めて、家族の顔を見られたら幸せだな」とか。また、自分は不幸せであるという結論になることが見え見えの「幸せになりたいという願いそのもの」を、一度手放してみるという考え方もあります、とお話ししました。

 けれど、どちらも受け入れてはいただけませんでした。そして最後に、こう問われたのです。

「アンタが私の年になったら、同じことが言えるのか?」

私は少し考えてから、お答えしました。

「たぶん、申し上げられると思います。」

そして続けて、

「もし、ご自身のお気持ちに沿わない言葉は最初から受け取られないのであれば、何のために相談してくださったのでしょう。」

そう申し上げると、

「あんたは何も分かってない。」

その一言を残して、お電話は切れました。

 自坊へ戻る道すがら、いろいろ考えました。

あの方には、あの方の人生があります。私には経験していない苦しみも、たくさんおありでしょう。もっと違う言葉があったのではないか。もっと寄り添う伝え方があったのではないか。

そんなことを考えていた時、ふと頭に浮かんだのが、「自信教人信」という言葉でした。

「自ら信じて、人をして信ぜしむ。」そして、その続き。「難中転更難」。

……ああ、そうか。

善導大師も、「そこが一番難しい」と仰っていたのか。

 そう思ったら、不思議と肩の力が抜けました。相手に届かなかったから失敗なのではない。自分が信じてもいないことを、相手に阿って(おもねって=媚びて)語ることも違う。

 届くかどうかは分からなくても、その時の自分が信じる教えを、誠実に手渡そうとする。その営み自体が、もともと「難しいこと」だったのです。

 何だか、ホッとしました。教えを伝えようとしていたつもりが、結局は私の方が教えに励まされていたのですから。僧侶であるということは、こういう学びの繰り返しなのかもしれません。

南無阿弥陀仏。

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