「頑張って信じなさい」ではなく――信機・信法を、いま語る理由

先日、WEB法話で「信機・信法」をテーマにお話ししました。
動画はこちら:【動画リンク】(※YouTube URLをここに貼ります)
内容については、以前ブログで書いたものと、ほぼ同じです。

 なので、今回は「執筆の理由」を。

 今回このテーマを選んだ動機は、ひと言で言えば、「信心が薄くなった」という感覚が「個人の怠け」ではなく、時代の空気と結びついていると感じたからです。

「信じにくい」時代の空気

 たとえば、日本では「信仰している宗教はない」が62%、何らかの宗教を信仰している人は36%という調査結果が報告されています。また「信仰心がある」は26%にとどまる、という数字もあります。こうした背景があると、「信じること」をいきなり正面から語り始めるだけで、聞き手は身構えてしまうのだと思います。だからこそ、今回の法話は「頑張って信じなさい」という話ではなく、信じる前の足場から話を始めました。 出典

 さらに、宗教に対する不信感や無関心を示す調査もあります。たとえば「最近、宗教への不信感が高まった」が39.7%、「お寺に行く目的がない」が53.2%といった数字が示されています。入口でつまずきやすい時代に、こちらが正論だけを強めても、届きにくいのだと思います。 

忙しさ・通知・比較――戻る前に次へ行ってしまう

 もう一つ、現代性として無視できないのが、注意や意識が細切れにされやすいことです。北海道大学の研究紹介では、スマートフォンが「置いてあるだけでも注意を損なう」効果が検証された研究が紹介されています。気持ちが散りやすいのは、根性だけの問題ではなく、環境の問題でもある。そう考えると、信心の話もまた「強く信じろ」ではなく、短くてもいいから「自分に戻る時間」を持つという方向が、むしろ今に合っていると感じます。

だから「信機」から始める

 浄土宗でいう「信機・信法」(二種深信)は、まず自分の姿(凡夫)を深く信ずる=信機、その上で本願により往生できると深く信ずる=信法という道筋として整理できます。信機は自己否定ではなく、現実に戻るための言葉です。そして、その信機があるからこそ、信法は「良い話」ではなく「必要な法」として自分ごとになってくる。私はそう理解しています。 

 葬儀や法要が簡素化し、僧侶の話に触れる機会が減っていく流れの中では、なおさら「普段の生活の中で、信機を深める」ことの意味が大きくなるのかもしれません。 


動画(【動画リンク】)では、信機を「特別な修行」にせず、生活の中に短く埋め込む工夫(30秒・1分の型)もご紹介しています。よろしければ、隙間時間にご覧ください。

南無阿弥陀仏