自分の考えを、発表してきた

 9月に入って、雨が続いています(今日は12日)。私は10−11日で、京都の佛教大学へ行き、「浄土宗総合学術大会」で発表してきました。これは浄土宗の学会で、1年に一度開催されます。実は私、20代の頃には毎年のように参加していたのですが、その後は足が遠のいていたのでした。
 しかしここ数年で「自分のやっている活動や、その中で気づいたこと、考えた事を世に問おう」とにわかに考えるようになり、住職として檀家さんに話すならば、少なくとも「浄土宗内でそれが通用する」ことを担保しなければ…と思うようになったのです。


 研究発表などというものは、もうここ30年近く行っていませんでした。幼稚園の始業式では話すのですが、久々の緊張感で、自分の番が近づくと確かに心臓が激しく波打つのを感じたりして(初々しいな、俺)とか妙に面白がっておりました。


 さて肝心の内容は、「仏教で人生相談に乗る、仏教で応えるとはどんなことか?」です。検索でもAIでも、「これは仏教で何と呼ぶのですか、どう考えるのですか」には一応、ご尤もな答えが得られます。仏教用語を駆使して「あなたの苦しみは○○と言うのです。昔からみなさん悩んできたことです」と、「誰かの人生を仏教で解説する…仏教を伝える」ことを仏教相談と呼ぶ人もいるでしょう。
 けれど私が考えているのは、「仏教のモノの考え方を使って、苦を読み解く。誰かの経験談を下敷きにしたり、心理学用語を前面に押し出しているのは、(それとして否定はしないが)お坊さんとして仏教で応えているのではない」ということです。


…難しいですか。
 仏教は根本的に、「物事は因果・因縁で起きる」と説きます。つまり、苦というのも構造があって起きているというのです。その構造を見取り、どの要素に働きかけることで解決を図るか。その見取り方に仏教の伝統を使いたいのです。
とはいえ、もの凄く難解なものとも思いません。

平たく言って

仏教で応える、とは?
何かの出来事を「仏教の考える、物事のしくみ」で読み解くこと。
  • 苦とは、願いがあっても、それが適っていない状況である
  • 現状を、「願い」と「状況」に分ける
  • 「願いに至る道筋」と「そのための一歩」を探し、示し、同伴する


 実際の相談現場では、ご本人の苦しみの表現やモヤモヤ、「分かってはいるんだけれど動けない」などがワーっと押し寄せます。それを「これは願い」「これは道筋」「これは歩み」と目星を付けながら聞きましょうということです。
 そしてこの3つを、仏教の大切にすべき価値…「仏・法・僧」と名前を付けましょう。そうすることで「仏教の枠組みで、その苦を捉える」ことになると考えたのです。
元来の意味は…「仏=さとりを開いた人」、「法=お釈迦様の説いたお経」、「僧=お釈迦様の教えを守り実現しようとする人々」で、まとめて「三宝さんぽう」と言います。これらの言葉を相談の現場で読み替えるとどうなるか。私の読み替えは「仏=問題が解決した状態。願い」、「法=そのためにどうすればよいか、の道筋」、「願いに至る為の具体的行動」というものです。そして、そこに付いてくるのが「僧侶とは、何をする存在なのか?」ということです。

 その人の相談の中に「仏」を見る。何を願っているのか、どういう価値へ連なる問題なのか。
その人の相談の中に「法」を見る。仏に至るため、どのような理屈筋道が考えられるのか。
その人の相談の中に「僧」を見る。共に娑婆を過ごす者として、本人がとれそうな行動は何か。
そして、立ち位置としての僧は「苦しみの構造を見いだし、何かを提案する」存在だと思うのです。

結果…この提案は受け入れられたと考えています。質疑応答でも「読み替えは許さない」「言い換えが間違っている」といった意見はありませんでした。あぁ良かった。

 ということで…6月のお施餓鬼会からお配りしている『普段使いの仏教』という小冊子シリーズの「回答作成の考え方・手順」は浄土宗という権威に認められたということです(多分)。

 これを使う、使いこなすとどうなるか…次回、記したいと思います。

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