お施餓鬼会お勤めいたしました

 さる1日(月曜日)、本年の「お施餓鬼会」を行いました。当日はやや暑い感じもありましたが、多くの方のお参りをいただき、この大切な法要を修めることができました。皆様本当にありがとうございます。

 お施餓鬼会の由来や内容については、ご法話いただいた内容をご覧頂ければと思うのですが、私個人としては、「この自業自得の世の中で、ご供養すること、ご回向することの価値」…価値という言葉もやや嫌らしいのですが…を、改めて自身の中に据えなければ、という思いでした。

 餓鬼さんは、自業自得の結果として、餓鬼になっている。私達も基本的には、自分の行いが因果となって自分に返ってきている。それは恐らく世の中の真理…というか、「実際に起きていることに説明を付けた・名付けた」ものだと思うのです。言葉が先にあって、その通りに世の中が動いているのではない。世の中の観察の結果として、それに相応しい名前として、「因果」とか「自業自得」という言葉はある。けれど時々、私達の願いは…それを越えようとしてしまう。

 自分の努力次第で試験の合否が決まるとしても、なお受かりたい。寿命は自分にどうしようもないけれど、この人と別れたくない。年を重ねるとは「できなくなること」の受け入れであるけれど、やはり淋しい。

 こういった願いとか感情は、「理屈がこうですから」「はい分かりました」と言っても…割り切れない。

お悟りについての私の理解(予感)

 お釈迦様のお悟りというのは、たぶん「全てのことについて、ああそうか、と受け入れられる」ことではないかと予感しています。そして自分も、なるべく多くのことについて、そのように観じられるようになりたいと思ってはいるのですが、、たぶん、そう観じ尽くすことはできないんだろう。そう思っているのです。

だからこそ、お施餓鬼という法要は不思議です。

 餓鬼さんは餓鬼さん。私たちは私たち。本来ならば、それぞれがそれぞれの業を生きているはずです。けれど私たちは、「どうか届きますように」と手を合わせる。亡き人を思い、苦しむ存在を思い、自分の善い行いを振り向けようとする。

 それがどのような形で働くのか、正直なところ私には分かりません。お経でも「不思議な力で」といった描かれ方です。しかし…、人は昔から、自業自得という理屈だけでは割り切れない願いを抱えて生きてきました。

「この人に幸せでいてほしい」
「少しでも苦しみが和らいでほしい」
「私の力は及ばないけれど、何かできることはないだろうか」

回向とは、そうした願いに形を与える営みなのかもしれません。

 自業自得の世界を否定するつもりはありません。むしろ、それは世の中をよく観察した結果として見出された、大切な真理だと思っています。

 けれど私は、その真理を完全に受け入れ切れるほど、たぶん強くはありません。

寿命はどうにもならないと分かっていても、別れは淋しい。努力だけではどうにもならないこともある。自分の行いの結果なのだと分かっていても、それでも誰かに救われてほしいと願ってしまう。

 だから私には、阿弥陀様が必要なのです。自業自得の世界を認めた上で、それでも「大丈夫だよ」と呼びかけてくださる存在が必要なのです。

 お施餓鬼会とは、亡き方や餓鬼さんのためだけではなく、私たち自身がそのことを確かめる法要でもあるのかもしれません。

理屈だけで割り切れない願いを抱えながら、それでも手を合わせる。

その手の合わせ方を、今年のお施餓鬼会を通じて、私自身も改めて教えていただいたように思います。

ご参詣、まことにありがとうございました。

今回の、AI使ってみた

絵です。「水冠」という帽子の表現に苦労しました。

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