社会科魂

 すっかり気に入った…「お檀家さんと話してみた」シリーズ。今回は懐かしく過去を振り返りつつも現代的な問題意識で、「社会科の教員免許を持っている」お話をしたいと思います。

 先日の「進路に悩んでいる」じゃありませんが、私は大学を教育学部、初等教育社会科専攻で過ごしました(そして卒業しました、念の為)。なので小学校から高校までの教員免許を持っているのです。

 その大学ではもちろん、幼稚園から高校までの教員志望がおりまして、中では「中等科英語教育専攻」のようにクラスが分かれているのです。時は昭和の最後(61年入学でした)、「我々は国家から補助金を出してもらって勉強しているのだから、国の役にたたねばならんのだ」といった(本当にそうなのですが)言葉をみんなが共有していました。
 そこで時々おこるのが「教科間競争」というか…。例えば理科が「俺たちが教える科学は、日本の発展にとって欠かせないものだ。たいへん価値ある教科なのだ」と言えば、体育科は「何をやるにも健康という土台は大切だ。一人一人にあった健康管理を教えることはとても大切なのだ」、美術科は「何かを成し遂げたり努力を続けるためには、感性を磨かなければ豊かな人生とは言えないだろう。我々は一人一人の花を咲かせるのだ」とか。

まさに喧々諤々(けんけんがくがく)といった雰囲気だね。

 いや、実際は4年間のあいだに、さまざま交わされた言葉ですが…でも今考えると、やっぱり活気があったのかしら。お互いにプライドがあるというか。

 さて、その中で我が「社会科」はどうか。正直言って、学生の私にはほとんど言い返せませんでしたね。せいぜい「過去を学ぶことで、将来の過ちを防ぐのだ」とかね(借り物感満載ですけれど、みな必死でした)。

社会科を学ぶとは、人生にどのような意味があるのか?

いわば30年来の問い

 それがですね…お檀家さんと話すことで、糸口が見えたのですよ。さすが長くやってきた方は違います。そして、言われてみれば盲点というか「理数系とは違いますよね」…ひっくり返しでした。

 さて、計算機はもちろん、AIまで登場している現代において、文系理系それぞれを「学ぶ・身につける・使う」ことの意味は何か(そもそも、意味はあるのか)?久しぶりにシリーズ化したいテーマに巡り合いました。

ちなみに、仏法僧で見る

これは、仏(願い)、法(理論)、僧(行動)でいうと、仏(なんのために学ぶのか)が分かれば、法(そのために沿った物事の見方)が予想つき、僧(実際何を調べるかがわかる)という構造です。
 そもそもの仏「何のために社会科を勉強するのか」が明確でなければ、法「どのような視点を持って勉強を進めていくか」もわからず、僧「そのために、何を手に取るか。どこへいくか」が分からない。
 だから「何のために社会科を」を、当時仮置きでもしていれば、まだ価値の高い試行錯誤ができただろう…と思ったりもするのですが、当時は「好きだから勉強する」で行けたのです…若いって素晴らしい。

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