表現・情報

 この春は、花の順番が常識外れになっているなぁ…というところから、色々考えが広がりました。そしてタイトルの「表現・情報」に落ち着いたわけです。どうぞお付き合いを!

 現状、私たちが目にしているのは「表現されたもの」が多いと思います。つまり、人為的というか「ねらいをもって表出されたもの」です(くどい言い方)。ということは、俯瞰すると「見せている・見せられている」というはたらきとも言えるわけです(能動体と受身体ですね)。テレビ番組しかり、インターネットしかり。もちろん本もそうです。
 そういったものと、「見る」ということは区別した方がいいのではないか…ということが言いたいのです。自らフト目をやり、何があるのか?何が起きているのか?を素直に見る。もちろんアチコチ目をやらねばなりません。例えばお寺の庭の木々は「私を見て」と言いませんし、もちろん池の鯉も「こっち見てくれ!」とは言いません(餌が欲しい、は言うでしょうけれど)。ですから時間もかかるでしょう(本来、機械化でできた時間はこのように使うべきではないでしょうか?)。

 そうやって自分で見て、自分で発見したものは、指一本でスルスルと流れていく情報よりも、はるかに意味あるものになるのではないでしょうか…自分にとって。一時間ネットサーフィンしても何も覚えていないけれど、一瞬見た桜が綺麗だった!みたいな。あるいはウェブでの情報収集と見学の違い、とも言えますね。
 今回は、表現や情報を「人為的なもの」というくくりで考えたのですが、このあたりは面白いと予感しています。浄土宗的には「つきかげ」ですね…いつの日かの種として、ここに撒いておきます。

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