もはや○○ではない

  さて、タイトルをご覧になって、最初に思いつくのは恐らく「もはや『戦後』ではない」だと思います。とても有名なこの言葉ですが、最近チョット「おや」と思ったことがあり、書かせて頂きます。
 今回改めて調べてみようと思って発見したのは、この二重カギ括弧の存在です。「もはや戦後ではない」とは違いますよね。何が違うかと言うと、「戦後と一括りに表現するような時期(『』あり)」ということ。話し言葉では抜け落ちてしまうことですが、原典は『』ありなのです。

まぁ、これはのちのち今回の記事のキモとなる部分なので、まずはスタンダードな解説を。

 さて、ネットでくだんの言葉を検索しようとすると、「もはや戦後ではない 本当の意味」と、やや意味深な候補が現れます。それを表示させてみると、この(昭和31年)時期の経済については、「戦前への回復」という特別な時期が終わる、復興景気が終わって、今後は近代化による成長をとげなければならない、ということを言いたかったようです。

 つまり、白書は「これから新しい成長が始まる」という希望を述べているのではなく、これまでの成長を支えてきた復興需要というエンジンがなくなるのだから、「これからは厳しい時代に入る」と言っているのだ。そしてその見通しは全く外れた。日本経済は、エンジンがなくなったどころか、更に強い成長力を発揮して高度成長の時代に入っていったのだ。オリジナルの「もはや戦後ではない」は、特に先見の明を持って時代をとらえていたわけではなかったのだ。

日本経済研究センター_コラム

 ああ、そうでしたか…。確かにこの後の日本は、高度経済成長期ですからね。「厳しく」なったかは別として、(復興というエンジンがないことを)乗り切りはしたのでしょう。ということで、上のような評価になった訳です(ただしキャッチフレーズとしてはピカイチですよね)。

そして、坊さんとして言いたいことは何なんだね?

 はい、仏教においては、「もはや『死後』ではない」という考え方をするのと同じだな、と思いまして。普通に考えると「死後」というのは「亡くなったあと」ですから、それ自体が終了することはないのです。しかし、カギ括弧付きの『死後』は終了することができる。さきほどの「戦後」が終わりを告げた(と表現して、それを受け入れられる)のと同様です。そして、「中陰」と呼ばれるものがそれなのです。もっとも、それは輪廻転生が前提なのですが…。
 坊さんとしては、四十九日(満中陰)の法要でよくお話ししています。そもそも輪廻思想を抜かした(往生とは、輪廻から離れることです)中陰は成立しないか…とか色々整合性には悩むのですが、供養する側に立って、「これだけ日数が経ってくる時期において、いつまでも後悔することはよくありません」と言いたいのです。「過去を忘れろ。前を向け」…いつでも言える言葉ではありませんが、四十九日というのはそういうタイミングなのだろうと思います。
 そして補足として。「死後、という期間が終わる」とどうなるの?という疑問が当然湧いてくるでしょう。「仏様になるのです」という答えは、非常にしっくり来ると感じております(微妙な言い方)。

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