社会科魂3〜石橋を叩きながら渡る

 社会科とは、何を学ぶ教科なのか。そんな30年来の疑問から始まったこのシリーズですが、前回は文系と理系の違いを考えているうちに、とうとう「理解するとは何なのか」という問いにたどり着いてしまいました。

 どうやら、もう社会科にこだわる必要はなさそうです。

 そもそも私たちは、何のために勉強し、物事を理解しようとするのでしょう。知らないことを知るのは楽しいし、分からなかったことが分かるのも嬉しいものです。ただし、この問いにはもう一つの側面があります。「理解して、どうするの?」こちらも考えていきたいのです。

理解してから、行動する?

 私たちは普通、「十分に理解してから行動する」のが正しいと思っています。よく調べ、比較し、最良の選択をする。失敗を避けるためには、確かに大切なことです。

 けれど、考えてみると妙なこともあります。

 最良の選択肢を探し続けて、結局何も選べない。失うのが怖くて、最初から手に入れようとしない。あるいは、結果が分かってから「ああすればよかった」と言いたくなる。どれも身に覚えがあります(私だけ?)。

 以前、「選ぶことに疲れた私たちへ」という記事を書きました。選択肢が多すぎると、かえって選べなくなる。もっと良いものがあるのではないか、と考え続けるうちに、選ぶことそのものが苦しくなってしまうのです。

 しかし今回、もう一歩考えてみたいのです。

 私たちは、行動するために理解しようとしているのでしょうか。それとも、行動しなくて済むように、もっと理解しようとしているのでしょうか。

 もちろん、「理解」を目指して、慎重に調べるべきことはあります。命や財産に関わることなら、なおさらです。でも、どんなに調べても、未来のことまで全部分かるわけではありません。それなのに「まだ十分に分かっていないから」と行動を先延ばしにしていたら、いつになったら動き出せるのでしょう。

行動すると、理解が変わる

 以前、進路を決めかねている高校生と話したことを「進路を考える」という記事に書きました。

 そのとき考えたのは、進路を決めるためには、まずいろいろな経験が必要なのではないか、ということでした。

 好きなこと、興味のあること、自分に向いていること。それらは、頭の中だけで考えていても、なかなか分かりません。やってみて初めて分かることがある。出会って初めて興味を持つことがある。失敗して初めて、自分が何を大切にしていたのかに気づくこともある。

 つまり、行動することによって、それまでの理解が変わるのです。

理解・行動・学びとは何か?

物事を学ぶとは、
「理解する → 行動する」

 だけではなさそうです。

「理解する → 行動する → 新しいことに気づく → 理解を改める → また行動する」

 こんな循環があるのではないでしょうか。

 そして、この循環そのものを「学ぶ」と呼んでもよさそうです。

世界も、自分も変わっていく

 ここで、ようやく仏教の話になります。

 仏教の基本的な教えに「諸行無常」があります。すべてのものは、さまざまな条件によって成り立ち、変化し続けている、ということです。私たちは、一度理解したことが、いつまでも正しいままであってほしいと思います。昨日正しかった判断は、今日も明日も正しくあってほしい。

 ところが、そうはいきません。

 世の中も変わるし、周囲の人も変わる。そして何より、自分自身も変わっていきます。昨日は気づかなかったことに、今日気づく。昔は許せなかったことが、今は少し理解できる。若い頃に正しいと思っていたことを、年齢を重ねて考え直す。

 そんな経験は、誰にでもあるでしょう。

 ここで面白いのは、無常だからこそ困る一方で、無常だからこそ、私たちは変わることができるという点だね。 以前の理解が不十分だったとしても、そこで終わりではない。新しい経験を通して、見方を変えることができる(だって諸行無常なんだから)。

 そう考えると、学ぶことは、単に知識を増やすことではなくなります。

 変わり続ける世界の中で、自分の理解も変え続けていく。そのために、学ぶのです。

石橋を叩きながら渡る

 さて、昔から「石橋を叩いて渡る」と言います。

 慎重に安全を確かめてから行動する。まことに結構なことです。

 しかし、考えてみれば、石橋をいくら叩いても、その先のことまで全部分かるわけではありません。しかも、橋そのものだって、いつまでも同じ状態とは限らない。

 だから、私なら少し言い換えたい。

「石橋を叩きながら渡る」

 一歩進んで、足元を確かめる。確かめたことをもとに、次の一歩を決める。思っていたのと違えば、歩き方を変える。場合によっては、引き返すこともあるでしょう。そしてそれを恥じない恐れない。

 これなら、慎重であることと、行動することは矛盾しません。むしろ、行動するからこそ、新しいことが分かるのです。そして、その結果を引き受け、理解を更新していく。

 もちろん、失敗しても構わないということではありません。できるだけ失敗しないように考えるのは大切です。ただ、失敗しないことだけを目標にしてしまえば、学ぶ機会そのものを失うかもしれないのです。

「学ぶこと」に終わりはあるのか

 以前、「私なりの仏法僧」という記事で、私は仏教の三宝を、日常生活に生かすために「願い・方法・具体的行動」と読み替えてみました。

 何を願っているのか。そのために、どのように考えるのか。そして、具体的に何をするのか。

 今回考えてきた「理解・行動・学ぶ」も、これと繋がっているように思います。何かを願うから、理解しようとする。理解したことを頼りに行動する。そして、行動した結果から、また学ぶ。そのうち、願いそのものが変わることだってあるでしょう。けれど正解が分からない状況で判断し、その結果を引き受け、自分の理解を更新し続ける。

 これが、私の考える「学ぶこと」の姿なのかもしれません。

 さて、社会科とは何を学ぶ教科なのか。そんな30年来の疑問から始まったこのシリーズですが、ずいぶん遠くまで来てしまいました。

 しかも、とうとう社会科の答えは出ていません(笑)。しかし、考え続けるうちに、最初とは違う景色が見えてきました。これもまた、「学んだ」ということなのでしょう。

 石橋を叩きながら渡る。

 どうやら私自身、今もその途中にいるようです。