檀家さんのお誘いに乗ってみた

 昨年の末だったか…ご供養席へ声を掛けて頂き、お食事を頂戴したのですが、その席で「自分はいま、宗教文化に興味があって、飜訳も仕事にしている。ムラト・ヤーガンという人の著書を出版するのだけれど、そのお弟子さんが出版記念に来日する。ついては、その方と対談してみないか」と誘われたのです。

 おぅ…しばらく迷ったのですが、「通訳はつけるから、仏教とか日本の文化について語ってくれないか」ということで…「父なら喜んで受けるだろう」と思い、承知いたしました。

 さて、西洋の宗教家か…「仏教は宗教なのか?」とか、向こうの定義を押してこられたら面倒かも…などと逡巡したのですが、これも御縁だ経験だ、ということで「出版記念パーティ」にも参加させていただき、ヤーガンの纏めた口承(ケブゼ)を実践する財団の理事長さん(先述のお弟子さん)ともお目に掛かりました。

 出版記念講演ということで理事長のお話を伺ったのですが、そこで興味深かったのは「これは宗教ではない、とヤーガンは断言していますが、それは何故ですか?」という質問です。「宗教であるとすると、それ以外を排除する傾向が出てきてしまう。我々はそうではなく、様々な道はあるけれど、頂上は一つであると言いたいのです」と答えられました。

おや?典型的な「宗教」像を否定している。これは仏教とか日本の宗教観に近いのかも」と感じました。

 実際、彼らのコミュニティには仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒もおり、週一回は仏教徒主導の瞑想も行っているとのこと。それまで私は「西洋の言う宗教は排他的。自分の神が唯一絶対だと思っている」と理解していたので、それと異なる宗教観…世界観を持っていると思って、俄然興味を引かれました。

 そして、お寺への来訪。私としては日本の「重層的な宗教観」を見せたくて、庭と本堂で、それぞれ体験して頂こうと考えたのです。

この画像はAIによる生成です。光圓寺のお庭を見て頂きました。
庭に出て、そこにあること、状況を体験して頂く
 ちょうど新緑が綺麗だったり、小さな花が咲いていたり、鯉もいるし、お天気もよい。紀貫之の「心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を説明し、自然の中で目が行くということは、心が動いたということ。その心の動きに気づけることで、自然もみな生を表現していることを感じるでしょう。どこに目が向き、どんなメッセージがありましたか?と問うてみました。
本堂で、お念仏とお焼香を体験していただく
 ついで本堂へご案内し、阿弥陀様を紹介して「私たちの宗派では、このようなご供養をします」と、私がお念仏お唱えして、お焼香を体験していただきました。作法は件のお檀家さんに付き添っていただき、短い時間ではありましたが、お念仏の声を聞いていただきました。
さまざまな対話・意見交換
 私たちは、坊さんが何か神秘の力を発揮するのではなく、仏様の功徳を回向すること、繰り返し称えることで集中を促すこと、その過程での自己の体験をお話しました。彼らの知る「瞑想」は「考えないこと」ですが、「お念仏を称え続けること」でも似た状態に至る可能性を共有しました(ここには多分、スーフィズムにおけるディクル(=繰り返し称えること)と親和性があります)。
怒りや苦、そして願いや対応
 非常に興味深かったのは「怒りへの対応をどうしていますか?」と問われたこと。「伝統的には、怒りは捨てよというのが仏教の基本です。しかし我々は、”怒りは願いの裏返し”として、自分の願いに気づくガイドにしようとしています」とお答えしました。その点、非常に同感を頂いたと思います。
 日本では、様々な問題…不安も含めて…に、極めて柔軟に対応がなされます。生まれたら神社へ詣で、結婚する時は教会に通い、亡くなったらお寺で供養する。ここはよく「統一感がない」と指摘されるのですが、「特定の宗教に強く縛られることなく、その時々の不安や節目に応じて関わってきた」のが日本人の態度だ、その都度の心の平穏をえるために、行動を選んでいるのだ。日本人が「私は無宗教です」と言っても、それは「一つの宗教に拘泥しないということだ」と説明しました(ちょっと断定しすぎたかも…我が煩悩ですな)。

 ただ、この辺りは、彼らの思いと非常に一致したように思います。一般には別々とされる宗教の人たちが一堂に会してコミュニティを作っている、その現場の方ですので。

私からも質問しました。「神」と呼んでいる対象は何なのですか?と。時代や文脈により、それの指す内容は非常に広汎です。
 そうしたら、にこやかに「後ほど用語集を渡しますが、とても広く捉えていますよ」とのこと。神とは、「創造性の源であり、宇宙全体であり、すべてに通底するものであり、意識の最高の状態で…唯一のミステリーです」と。懐かしくも祖父の言っていた「阿弥陀様は大宇宙の大生命の顕現である」と同じではないですか。「意識の最高の状態」とは、「お悟り」じゃないですか。

 多分、彼らの言う「神」とは、「ひげを生やした和やかなお爺さん」とか「人間と動物の合体」ではなく、いのちそのもの、とか何らかの状態を示している。ありようを指す言葉なのだ、と理解しました。多分、それを分解する言葉はない。「おさとり」を分解できないのと同じです。

 本当は、「あなた方から見て、死とは(生とは)何ですか」なども問いたかったのですが、何だかもういいや…とにかく「人間は高まっていける」という信頼が、どこを切り取っても感じられ、すっかり満たされた気分になったのでした。

今回のまとめ

 最初は少し身構えていたのですが、終わってみれば「なるほど、同じ方向を見ているのだな」と感じることばかりでした。

 言葉も文化も違う中で、こうして通じ合えることの面白さと有り難さを、改めて味わう時間となりました。あと、通訳の方の絶妙な仲介。「ああ、この英語を、なんで自分で言えないのか?」というもどかしさも感じました(笑)。

 こういう出会いもまた、ご縁ですね。ありがたし。