山を登りきった人の問い
人生相談を受けていると、さまざまな問いに出会います。
多くの場合は、苦しさの中から出てくる問いです。「どうしてこんなことに?」「どうすればよいのでしょう」。そうした問いには、寄り添いながら道を探していくことになります。
ところが時々、とても珍しい問いに出会います。今回の相談は、まさにそういうものでした。
その方は、「これまでの人生に満足している」と言います。登山家として活動し、本も出し、やりたいことは一通りやった。だから、両親を見送ったあとには、もういつ死んでもいいと思っている…と。悲観しているわけではない。ただ、次に目指すものが見つからないというのです。
普通なら、「誰かのために生きてみてはどうですか」といった答えが出てきます。実際、別の回答者はそのように勧めていました。自分のための修行が終わったなら、次は他者のために活動してみてはどうか、と。これは大乗仏教らしい、とても立派な考え方です。
けれど私は、少し違うことを感じました。
この方は、人生をやりきった地点に立っているのかもしれない。山を登りきった人に、「次の山を登りましょう」と言うのも一つの道ですが、山頂に立った人には、そこからしか見えない景色があるのではないでしょうか。
だから私は、答えを出すよりも、「その地点から何が見えているのか」を聞いてみたいと思いました。人生に満足した、そこにはどんな風景が広がっているのか。そこでは、まだ言葉になっていない何かを見ているような気がしたのです。
思えば、こうした「予感」は自分の体験から生まれたというより、父や母を見ている中で、どこか漠然と感じていたもののように思います。長く生きてきた人の姿を見ていると、人生の意味をあれこれ説明するよりも、淡々と日々を受け取っている姿に触れることがあります。立ち位置を、この質問者に見たのかも知れません。
若いころは「何を目標に生きるか」を考えがちです。しかし年を重ねた人の中には、目標を声高に語らなくても、穏やかに毎日を過ごしている人がいます。その姿を見ていると、「生きる理由を強いて作らなくてもいいのだ。理由を手放しても大丈夫なのだ」と感じるのです。
現代の生活スタイルでは少数派になった、「お年寄りと共に過ごす」こと。「お祖父ちゃん・お祖母ちゃんの存在は、人間にしかない」というのを思い出したりして、有り難いことだと思います。
そこには、今の私からは「まだ」見えない、人生の後半の姿が「ある」ことが、示されています。
