視点を変える
この度、ご縁あって「豊島組寺庭婦人会」の研修を行わせて頂きました。馴染みのある方は多くないと思いますが、お寺さんの奥様方のグループで、普段はそれこそ大黒さんとしてお忙しい中、年に一度の「地元の研修会」でお伝えをさせて頂いたのです。
そう、この「順彼仏願故」というのは、いま浄土宗が「開宗850年記念事業」として行っている活動の中に現れるもので、意味だけとれば「かの仏の願いにしたがう故に」となるのですが、これ法然上人の「開宗の御文」という、まぁ宣言ですね、それのシメとして用いられているものです。
私としても、寺庭婦人の皆様には好感を持って頂きたいので、「楽しい中にも、何か得るものを、学びを」と考えて、昨年から力を入れている「対話的絵画鑑賞」を「順彼仏願故」に結びつけ、「自分なりの視点を持つこと、それに自覚的であることの大切さ」をお伝えし…ようと組み立てました。
法然上人は勉強家でいらしたので、お経をそれはそれはしっかり何度も読み込まれた。一切経を五度も、というのですからものすごい勉強量だったのですが、「4度目までと5度目、何が違ったのか?」と考えれば、それはおそらく視点の違いなのだろうと思うのです。つまり問題意識が変化したのではないか。「私には何が相応しいのか?」という問いの答えが「仏様が選んだから」というのは合いませんね。「私だけじゃなく、誰にとっても相応しいのは、どうして分かるのか?」の問いにこそ「仏様が選んだから」は相応しいと思うのです。…まぁ、あまり厳密な学問としては私自信ありませんが。
ということで、「同じものを見ても、視点が異なると違うストーリーに見える、見えてくる所が変わる、感じる意味が変わる」という体験をしていただいた訳です。「あの時 同じ花を見て 美しいと言った2人が」という歌がありましたが、「そうじゃなくてもいいんじゃない?」という練習…でもあったのだろうと。2グループに分かれ、自己紹介を伺っていると、「観劇が好きなんです」「昔、絵を描いていた事があるんです」など、絵画鑑賞に前向きなお言葉も多く、頼んだコーチの方も和やかな場を作って下さり、「見て、考えて、話して、聞いて」という活動を楽しんで下さった方が多かったように見受けました。
ただ、「対話」に至るにはもう一段階あるよね。
それはその通りで、「対話によって自分の行動パターンや”ありよう”を深く見ていく」とか「論理的に問題を解決する」とかを目指すこともできるのですが、今回の趣旨としては「みなさん、お話したり考える中で、”内なる声”を聞きませんでしたか?間違ったら恥ずかしいとか、これは絶対否定してやりたいとか、答えが見たいなぁとか。」と問いかけるに留めました。そしてフィナーレ。
コーチの言葉遣い、お気づきになりましたか?「どうして?」とは聞かなかったと思います。「どこから?」は聞いても「どうして」は聞かない。それはトレーニングされているのです。「どうして?」は時に責めている響きを持つ言葉なので、伸び伸び発言できなくなる可能性があるのです。また、「どうして?」は絵の外の個人的な経験を持ち出しやすくなります。そうすると話の土台が1人1人異なってきて、一方的になる危険をはらむのです。
皆様のお寺にも、素晴らしい絵画や仏様の像があると思います。ぜひじっくりご覧になって、ご住職様と対話されてみて下さいね。その時には「なぜ?どうして?」ではなく、「どこから?」をお忘れなく。