サムネに思う

 この夏は、とても意識的に美術品に接するようにしています。きっかけは遥か年初にあったダイレクトメール。「これは面白そうだ」と感じたのですが、なかなか行動に移すことができていませんでした。
 8月からは、それを取り返すがごとくワークショップだのセミナーだのフォーラムに参加。「アート」について、現在それが置かれている状況とか、関わる人がどんなことを考えているかとか、そもそも人間にとって何だろうかとか、色々と考えています。多少の実践(計画)も始めました。

 実践、というのは「ワークショップを主催する」側になるということなのですが、その題材を探そうとして気がついたことがあります。今時は(そしてコロナ禍により更に)便利に絵を探すことができます。しかし実際の行動は「ザッピング」…スイスイチラチラ見て流して行ってしまうのです。「アートとの付き合い方を学び、実践しよう」と思っているので「アートでないものは通過〜」なのも悪くはないでしょうけれど、ワークショップに「使いたい」と思えないものが余りにも多い。ひとことで言って「分かりやすすぎて深みがない」のです。これは「サムネイルに使う画像」としてあげられているからかな?と思いました。

 確かに私も、幼稚園の「おたより」やブログ記事を書く時に、それに関連しているであろう「画像」を載せます。それは「人目を引くこと・クリックしてもらうこと」を目指して、「インパクトがあり、分かりやすいコピーがついている」サムネイルとして使う訳です。元の絵だか写真だかに、デカデカと太字の文字を被せて…。(何だかそこに「すいません」という気持ちが湧いてきます。)そういう使われ方をするのですから、発表している方も「分かりやすい・使いやすい」つまりは売れやすいものを作るようになるでしょうね、作者の主張はいらない。分かりやすく邪魔にならないものであれば良いと。

 何だかそこに、寂しさを感じるのです。

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