遣る・馳せる

 昨年の『武器としての資本論』に続いて(というか)、『人新世の資本論』を読んでいます。この著者、斉藤さんというのですが、何と高校の後輩であるそうで、まぁ中庸な学校から俊英が出たものだと感服しております。
 基本的なテーマは「資本主義と地球資源・環境」ということです。読了していないので断言できないのですけれど「将来の世代にツケを残す」ことが如何に恐ろしいか、資本主義によって問題の転嫁がいかに巧妙に行われているかの警鐘を鳴らしています。そんな中、「思いを馳せる」ことが今は減ってきたな、とフト思いました。

 いつだったか、「ペットボトルの廃棄について、中国が引受をやめた(やめる意向)」というニュースがありました。それまでは「ラベルも剥がして洗ってリサイクルに出しているから、俺ってイイコトしてる」程度に思っていたのが、とんでもなく甘い妄想だったことに気づいた訳です。そして、その甘さの元凶に「だって住民税払ってるもん」と、「お金で解決」意識があったことに気づいたのです。

「お金払ってるんだから、あとは知らないよ」という、資本主義の価値観にどっぷりハマっていたわけです。

 自分が子どもだった頃より、遥かに多くのゴミを出している。そこに罪悪感を感じさせない免罪符が「お金払ってる」だったのです!しかも「一本ゴミを出すごとに5円」とかの従量制ならともかく、「ゴミ出し放題」で税金を収めているのですから、むしろ「たくさん出さなきゃ損(そこまで自覚的ではないが)」とさえ考えてもおかしくないかも、です。

まぁ、意識しやすさの差でしかなくて「カネで解決」なのは同じだけどね。

 核廃棄物だって同じです。「電気代に含まれてるんだから」が免罪符になってる。いやー、これって余りにも大きいけれど直視しなければならない問題ですよね。まさに「正見」、自分の煩悩による色付きメガネを捨てよ、というのは仏教の「八正道」の第一ですから。

 おっとっと…「思いを馳せる」と「思いを遣る」について書こうと思っていたけれど、違うところに着地してしまいました。この件はまた日を改めて。

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