便利がすぎる
この間、お参りに来られたお檀家さんとお話していて、「今は便利過ぎますよね」という話になりました。特に何かを伝えるというときに、(彼のお檀家さんや)私は「正式には会って伝えるべきである」と思っているのですが、今は「別れ話代行」「退職代行」から「スマホのメッセージでお別れ」など、「伝える内容と、その手段がマッチしていない」という話になりました。
もともと情報を伝えるために作られたのがパソコンや何やら機器やインターネットであったので、それら全ては「情報を伝えることが使命」であります。ところが、「辛いです」と書けば何かは伝わるので、「これで感情も伝えられる」と勘違いしてしまったのですね…多くの人が。
しかし、特に感情は個人の体験をベースとしているので、「基本的にそっくり伝わることはない」もの。対面であっても相手の反応を見ながら伝えるものです。それをホンの何バイトか、何クリックかで伝えるのは無理な話です。ものすごく個別の感情である「辛いです」を、そんなに手数少なく伝えられるはずがないのです。
そもそも、「便利」というのは仏教語だとか?
どうでしょう。仏教では単純に「お通じが良い」という体調の話のようです。また、「便」という字は「人が更新してゆく、改善してゆく」という意味があるようですけれど。「詰まりや滞りのないこと」を価値としているのでしょう。
いやー、「良い」と言ってもあくまで程度問題ですよね。「ひたすら全てを垂れ流し」ってのは、もはや「良い」とは言えませんよね。それを「お腹壊しちゃった」というなら、現代はさしずめ「こころ壊しちゃった」ですかね。