心身脱落

 hasunoha(インターネットのお坊さん相談サイト)では、禅宗のお坊さんの回答として「どうしたら幸せになるの?ではなく、既に幸せであることに気づくべきである」というようなものを見かけます。
 「これは中々カッコいいなぁ」と思いつつ、彼らがどうしてこういう言い方をするのか疑問でもありました。そこへ!偶然ラジオで聞いたラッパーの歌を聴いていたら同じようなセリフを耳にしたのです。

幸せは なる ものではなく 今ここに ある と気づくのである。

ハダ色の日々(Moroha)

 これ、道元禅師によるものが下敷きになっているのですね。禅師の命題は「人間にはすべて仏性が備わっているというが、であるならば何故修行をしなければならないのか?」というものだったようです。で、その問題意識を持って、宋の国まで渡って諸山を遍歴します。そうして如浄禅師という方に師事するのですが、座禅の修行中に大きな悟りを得ます。

ある日、道元さまは他の修行僧と共に坐禅をしていました。その中で、一人の僧が居眠りを始めました。すると、如浄禅師は「坐禅は、身心脱落でなければならん!居眠りなどしていてはいかん!」 と温かくも厳しく修行僧を励まします。

 坐禅の後、道元さまは如浄禅師のもとをたずね、感慨を述べ、如浄禅師に伝わる仏法をつぐことを許されました。

大本山 永平寺ホームページより

 まぁ、「暖かくも厳しい」かどうかは措くとしても(きっと警策でバシッとやったのでしょう)、「捨てることで達成される」というのがポイントなのですね。普通の状態で、既に裸ではない…というか纏ってしまっている。それを捨てることこそ大切なのだ。そういう気づきなのですね。
 何を捨てるのか?自分の奢りとか思い込みとか固定観念とか(全部同じですね)、予想とか期待とかも…。そういう「色眼鏡」を捨てれば「既にある幸せに気づくのである」。

バリバリに煩悩を持っている(そしてそれを自覚している)ラッパーがふっと「今ここ」に目をやった時、その煩悩から離れて幸せに気付いたという体験(歌詞)は、知識があってか偶然か分かりませんが、私にはとても腑に落ちる話です。そして実は我が浄土宗でも「時はいま ところ足元 そのことに 打ち込むいのち 永遠のみいのち(椎尾弁匡)」という言葉が残されています。

何かを加え持てば幸せになれる、と思いがちだけれど、何か捨てることで幸せになる、というのは仏教の革新的な(核心的な)発想なんだろうね。

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