武器としての『資本論』
いやぁ、結構危険なタイトルという感じがしますね、「武器としての」ですから。先日、用があってお茶の水へ行ったのですが、『サイレント・インベーション』という、中国とオーストラリアの話を買おうと思って探していると、その隣に並んでいたのがこちらです。
中国の覇権主義は、どうも本気みたいだから気をつけないとな。それはそれで。
私は文系でしたから、多分どこかで『資本論』は読んだと思います。しかし、内容としては全く覚えておりませんでした。「確か、資本主義が共産主義に成熟していく…とかいう話だったっけ?」とか思って手に取ると、著者は『永続敗戦論』の白井先生。読み始めると、「現代を規定している資本主義というものについて、改めて解説。マルクスは筆が遅く、生前中は全3巻のうちに第1巻しか刊行できなかったが、それは推敲を重ねていたゆえで、出来上がった文章は非常に示唆に富む」というようなことが書いてありました。『それをお金で買いますか?』も気になったし、「全ての尺度にお金を用いるのには抵抗感が大きい」ということもあり、読むことにしました。
最近は新書か文庫が多かったので、久しぶりの単行本。色々とワクワクしながら読んでいるのですが、お寺ブログとして引用したいのは
肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。
つまり、買い物とか商品とかに囲まれた生活をしていると、やがて価値観(ものの見方)が、それ(商品)を基準にするようになっちゃう、という話です(これ自身はマルクスではありません。スティグレールという哲学者の言葉です)。そういう人たちを、実は「お坊さん相談サイト」でよく見かけるのです。「自分は何も売ることができない。労働力として無価値だ。だから生きている意味がない」という展開が典型的です。「いるだけでいいんだよ」という温かい、けれども時にウザったい関係から解放された(切り離れた)存在として、自分を見ているのですね。
仏教では、物事すべては縁によって成り立っており、何事からも切り離れてはいないと説きます。ということは、イマドキの資本主義由来の諸問題への回答を、仏教は持っているのではないか…大雑把な話ですが、そう予感してます。
評判のよい本みたいじゃないか。それなりの厚さもあるようだが、全部読み切れるか?