開いているということ

「不急・不要の外出は自粛」という文字を見ない日はありませんが、芝の大本山増上寺へお参りしてきました。「坊さんなのに?」と思われるかも知れませんが、こちらは私が修行したお寺で、いわば「坊さんとしての産院」な訳です。

 しかし現在は「コロナウイルス感染症の拡大防止のため」ということで、境内地には入れるのですが大殿を始めとするお堂には入ることができません(墓所のある檀家さんは入れるようです)。私の知る限り(よっぽど変な時間以外は)閉じていることのない扉の前で、何とも言えない「残念な感じ」を持ちました。

 もちろん、大本山の対応を批判したいのではなく、むしろ英断されたと感じてはいるのです。それこそ「頭では理解できる」ことです。多くの方が参詣し、観光で訪れる方も多い。場所柄通行人も多い。もちろん、職員さんも大勢働いていらっしゃいます。様々な可能性を考えてのことであろうと推測いたします。

 けれど同時に、「あぁ、閉まっているんだ」という一種寂しさのようなものがあったのです。「彼女に会いに行ったが扉を開けてくれなかった」とは違いますが、何かそれに通じるような…。そういえば、鎌倉の大仏様は露座(お堂の中ではない)なのですが、やはり苦渋の決断で拝観中止になっていると伺いました。

 私共は「お念仏をお称えすることを勧める」宗旨ですから、そのまま受け取れば「扉が閉じていれば、その前でお念仏お称えすればよかろう」ではあるのです。だから、私がそんな事を感じたのは未熟さ故ではあるのです。だからこそ、もっと「自ら安心できるまで」お称えすれば良いのです。…けれどね。

 この「不急・不要の外出」に「お寺参り、お墓参り」は含まれていません。「お寺にお参りに行くんだ」というのは、今堂々と行って良い事です。実際、平日のお参りが増えています…。「他に行く所ないからさぁ(笑)」という方も。

 どうぞどうぞ、ゆっくりしていって下さい。池でも滝でも私でも、時間が許すようでしたらゆっくりしていって下さい。愚痴が溜まっているならば、吐き出していって下さい。私も幼稚園が臨時休園のため、がらんとした園庭を眺めては焦燥感に駆られている一人です。

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