お施餓鬼について
光円寺では、毎年6月1日に「お施餓鬼会」を行います。その由来と意味について、改めてお伝えします。
お施餓鬼(施餓鬼会)の由来
お施餓鬼の日程について、以前は7月27日でした。しかし、その日程では余りにも酷暑の中になることから、数年前に現在の6月1日に移しました。お施餓鬼の日程は暦に固定されていないのですが、それは由来である「餓鬼に施しをする」こと自体がタイミングにこだわらないことによります。
「餓鬼道」というのは、六道(死後、次に生きる世界)のうちの一つで、飲食物の飢餓に悩む死者の世界です。その苦しい世界の住民に人間界から施しをする、その功徳をご先祖様供養に回向するのが施餓鬼会の構造です。
元々のお経としては、
(お釈迦様の弟子である)阿難尊者が1人修行をしているときのこと、口から炎を吐く焔口餓鬼(えんくがき)に「おまえの寿命は3日後に尽きる。死んだ後は我々と同じ餓鬼道に堕ちるだろう。」と言われました。恐れおののいた阿難尊者が、どうすればその運命から逃れられるかと訊くと、焔口餓鬼は「明日中に無数の餓鬼に飲食を布施し、仏法僧の三宝(さんぼう)を供養すれば、無数の餓鬼も救われ、その功徳でお前の寿命ものびるだう。」と答え、姿を消しました。困った阿難はお釈迦さまに教えを請い、施餓鬼の法によって無数の餓鬼を救い、自身も餓鬼道に堕ちず、長寿を得たということです。
救抜焰口餓鬼陀羅尼経
元々は「自身の寿命が伸びる」というのが功徳であったのですが、現在の形は、それを先祖供養に振り向ける、回向するお勤めになっています。
ひとまず、「ご先祖が餓鬼になってしまっている」と言うわけではないのですね。安心しました。そして、どんな現世を送ると餓鬼道に落ちると考えられているのでしょう?
それは「嫉妬・慳貪」つまり「妬み(ねたみ)・嫉み(そねみ)・けち・欲深い・思いやりがない・無愛想」で生きた結果だそうです…って、これかなりみんな犯しがちじゃありませんか?
まぁね…。これ、「一瞬でもそう思ったら餓鬼道行き」という訳じゃなくて、「この人の人生を一言で表したら、嫉妬の人生だったね」という程ではないのかね。人間の感情なんてフラフラしたものだから、そういった事をただの一度も経験せずに過ごすことはできないだろう。
大事なのは「こりゃいかん。この感情からは離れなきゃ」と気づくかどうか、じゃないだろうかね。
お施餓鬼(施餓鬼会)の意味
ということで、意味(目的)としては「ご先祖供養(回向)」とご理解いただければと存じます。本堂外陣の檀にお供えしてあるのは、仏様ではなく餓鬼さんに施すものです(「三界萬霊」というお位牌が建てられています)。しかし、それに至る過程で「餓鬼に供養する」ということは、即ち「嫉妬や慳貪に私も巻き込まれるかもしれない。餓鬼道につながる行動をしてしまうかも知れない。それを避けながら生きていきたい」という思いを新たにする機会、あるいは自分の中にある気持ちと決別する機会なのではないかと思います。
そういった生き方は、ご先祖様・仏様の願いに叶うものではないかと考えています。私としても、「もし父がそれを見ていたら何と言うだろうか?」は頭をよぎります。刹那ごとにいろんな思いは生まれるけれど、どれを捉えて自分に据えるか。自分の信念への昇華していくか。それはいつだって自分の意志なんだと信じています。