易行ということ
これ、「いぎょう」と読みます。「仏教の修行には、どんなものがあるのか?」という問題に対する、浄土宗の特徴を表す言葉です。我田引水気味なところはありますが、「他の、自分で悟りを開こうとするのは聖道門、私達のように阿弥陀様のお力で往生させて頂こうというのは浄土門と呼びます。」というのが説明です。想像がつくかと思いますが、「聖道門」は「難行」とレッテル貼りします。「今時、自分で悟りを開こうっていうのは難しいですよね」という訳です。
浄土宗は「鎌倉時代にできた新しい宗派」とは言っても、すでに800有余年の歴史があります。その中で、変異変遷してきたことは、やっぱりあるのです。
そして、この「易行」ということが、浄土宗(鎌倉時代には新興宗教)の広がっていく原動力になっていたのではないか、と私は思います。「自分で厳しい修行しなくてもいいのです。仏様のお力を信じて、あたかも自分で泳ぐのではなく船に乗って行くように、極楽へ往生しましょう」というロジックです。 ですから、「易行」ではあるのですが「難信」でもあるのです。パッと聞いただけでも「そんなに簡単に極楽へ行けるなんて、信じられないよ」というわけです。すでに『阿弥陀経』の中でも「これは難信の法である」と表現されています。
ところが、「易行である」ということから、「いったい何が易しいのか?どんな意味で易しいのか?」という疑問が、改めて沸き上がります。これは「具体的→抽象的→具体的」というサイクルで、どこでも良く見られる連想です。
「あの人、お花をくれたのよ。」「アラ、優しいのね」→「あの人、優しいのよ」「アラ、じゃ送ってくれるかしら」という、「抽象化されることを経て具体像が変化していく」というやつです。
もちろん、ある程度の納得感がなければ変異はしていきません。お念仏については「易行である」「どうして?」の具体的な例として「いつでも・どこでも・誰とでも行えるから」ということが言われてきました。「厳しい修行は不要っていうけれど、どこが”厳しくない”なの?」という問いにも、一応答えていますね。
そして、今こそ坊さんである私は、それを声高に言わなきゃならないと思っています。電話・メールとかICTは色々あるけれど、万が一それらが全部シャットダウンしても、なお「いつでも、どこでも、だれとでも(一人でも)、お念仏を唱えることはできますよ。往生(亡くなったあとに極楽へ行くこと)は安心してください」と。
「あの人が言うなら本当だろう、大丈夫だろう」と思ってもらえる信頼関係を持っていないとね。