知覚力
さて先月はアートについてアーダコーダ言っておりましたが、それを支えている部分の勉強に移ってきました。それは「知覚力」…どうもそれほど一般的な言葉にはなっていないようですが(wikipediaに取り上げられていない)…私から見ると「ありのままに見られる力・度合い」のことでしょう。仏教では散々「人間は目に映るまま見えているのではない。煩悩があるから現実をゆがんでしか認識できないのだ。(だから苦しい)」といった話をしますが、この言葉を使えば「人間の知覚力を下げているのは煩悩である」という話ですね。
実際「知覚とは何か」について、それは2つのステップに分かれ、①受容(感覚器を通じて知覚情報を受容する)と②解釈(脳が既存の知識を組み込み、意味づけする)と説明しています。①の感覚器官だけでは知覚に至らず、②の脳の処理を経なければ知覚と呼ばない、というのは分かりやすい話です。これは仏教だけでなく、古代ギリシャから受け継がれているモデルだそうですから。
はて?そんなに普通の考え方であるなら、この言葉はなぜこうも取り上げられてない、メジャーじゃないのでしょうか?ネット上だとあたかも2019年からこの言葉が生まれたような感じでさえあります。
まあ、その辺りはいろいろ環境変化があるのでしょうね。多分「現代人が一日に晒されている情報量は、平安時代のそれの一生分」とか何とか言われているのと関係ありそうに思います。
この、「ありのままを見ていない」というのはどうも否定的に捉えられることが多いとは思いますけれど、「自灯明・法灯明」の話しも思い出されます。お釈迦様が入滅されるにあたり、弟子に向かって「自らを頼りに、また法を頼りに生きなさい」と仰ったということです。これ、「自らの生活から得た正しさ、だけでなく私が語ったこと(お経)も頼りにしなさい」と言っているような気がするんです。法と自身の縁の上に行くべき道があるというか…お釈迦様のお経は膨大にある中で、自身の価値観にあったものに出会えばよい、と言っているような。
何とも歯切れが悪いけれど、いま考えるに丁度いい材料なんだろうね。この「新しく知ったことが今までの知識に再編・統合されていく」のは、まさに知覚のプロセスだね。