仮想現実(VR)の方とお話しして、楽しかった

 先日、ご法事が終わってから、檀家さんと少しお話ししました。「学生時代、VRを専門にしていました」とのこと。実は私も「パソコン黎明期」に中学生を過ごし、そういった類は今でも大好きなのです。

 まず、率直に聞いてみました。「VRって、どんな風に役立つのですか?」そうしたら、とても面白い答えが返ってきました。

食事制限とかにも使えないか、という研究をしていました。例えば、甘い物を制限しなければならない時に、ヘッドセットでは「甘い物を食べている映像」を見ながら(あとは匂いも付けて)、実際にはそうでもない(カロリーの低い)ものを食べる。そうすると、脳が感覚器からの情報に引っ張られて甘い物を食べたかのような満足感を得られないか、とか(MetaCookie+)

 ほほう、もの凄く面白い。「つまり、脳の錯覚を利用するという訳ですね。確かに、脳みそは頭の中にあって、それ単体では何も知覚できなくて、感覚器からの信号を構成するしかできませんものね」と返しました。

ここで一つ、疑問が浮かびます。
私たちは、こうした感覚の情報をもとに「世界」を組み立てていますが、ではその「世界を見ている私」とは、一体どこにあるのでしょうか。

 実際、仏教とか(恐らくインド哲学)では「自分とは何か」をずっと突き詰めて考えてきたようです。「現実を見ろ、と言っても視力の悪い人が見る世界と、そうでない人の見る世界は違うだろう」というのです。つまり、私たちが「現実」と呼んでいるものは、決して一枚岩ではなく、それぞれの感覚や条件によって異なって見えているものです。
 では、その異なる世界を「見ている私」は、確かな存在なのでしょうか。そして「身体と自己」をめぐっては、こんな問いもあります。「自分とは何か」を確かめようとする試みです。

 「私が目を失ったら、私は私でなくなるのか?」とか「爪を切ったら、その爪はすでに自分ではない。腕を切り落としたとしたら、その腕は既に自分ではない。では何を失ったら、自分でなくなるのだろうか?」とか(父からの伝え聞き)。

 これらの問いは、「どこまでが自分なのか」という問題に見えますが、実はもっと根本的な問いにつながっています。
つまり、「そもそも自分というものは、どこかに固定して存在しているのか?」という問いです。

 戦車は、車輪・車軸・座席などの部分のどれか一つでもなく、部分の外に独立してある実体でもない。それでも便宜上「戦車」と呼ばれる。同じように、人もまた諸要素が揃っているときに慣習的に「人」「私」と呼ばれるのであって、そこに不変の自己があるわけではない、という議論です。(ミリンダ王の問い)

これが、「自己とか私というものは、縁(諸要素の揃い)によって成り立っている」という話ですね。お坊さんがよく言う「ご縁を大切に」というのは、他者との人間関係だけではなく、(ご縁によって成り立っている)自分自身を大切にする、ということでもあるのですね。「心臓さん、肺さん、いつもありがとう」みたいに。

AI

2コママンガは、AIによる生成です。こりゃ便利だわ。あと、ディスクリプションもAIで要約してあります。