世界の見方

 さてしばらく間が開きましたが、そろそろ納めなければなりません。前稿で少し触れておきましたが「科学の大幅な流入」はアートだけでなく宗教界にもインパクトがあったはずです。
 もちろん、仏教には「科学的」な部分もあります。お釈迦様が自らを医者に例えているところ、「真理=普遍的なもの」を認めている(ゆえに万人にとって再現性がある)ところなど。しかし浄土宗(浄土教)にとってはどうでしょう。

 おそらく大変なことだったのではないでしょうか。「人は亡くなったあと、どうなるのだろうか」についての強力な仮説が出てきたのですから。科学という「客観性」を梃子に。それまで語られてきた「人は亡くなると極楽に行く」というのが共通理解(亡くなってからは語れないので、正しくは仮説)ではなくバラバラな個人的見解に依るころになるのですから。その危機感あればこその、明治時代の仏教者は非常に苦労されてその整合性を図っていったのだと思います。アート界と仏教界、似たような状況に置かれていたのではないかと私は考えます。

 いや更に。アートも宗教も「この世界の見方を表現したものである」とすれば、それは同じ営みであり、表現方法が異なるだけ(宗教は言葉という表現方法である、とすればアートに内包される)とさえ言えそうです。仏教が「この世は無常である」という見方であるのは確かですが、「この世、ではないあの世は(本人にとってどうなのだ)?」を扱う浄土教は「アートでなければ表現できないことは?」という問いと似たものを感じるのです。

 人は亡くなったらどうなるのか?それは一人一人に向けられた問題。「私にとって、せめてこうであればいいなぁ」という個人的な解、そしてそれに対する納得感が「信」と呼ばれるものではないかと思うのです。

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