移り変わる
諸行無常・万物流転はこの世のことわり。それを明確に言葉にされ、直視されたのがお釈迦様なのだろうと思います。庭の池の周りの花木は、それぞれのタイミングに合わせて伸び、花を咲かせ、身を結んで枯れていきます。次の花に舞台を譲るかのように(花にとってみれば、それは悔しいのか?嬉しいのか?をフト考えましたが止めました。花にとってみれば只淡々と変化していくだけであり、譲るも蔓延る(はびこる)もないでしょうから)。
池の花々はそれぞれの寿命があり、ここに来た経緯も様々です。最初に植木屋さんが運んできたもの。私が幼稚園の園長になった時に植えたドングリ。住職が面白がって植えたみかん。祖父が植えた銀杏の木。鳥が運んできたであろう、花々。このところ雨が少なく、井戸の水位も下がっているようで、カサカサになったり変色している葉もありました。いずれも自らの命と置かれた環境に従って、あるべくように自然に生きているのだと思います。
住職がよく言っていました。「もうダメだ、なんて思っちゃいけないよ。常に変わり続けるだけで、下がったりダメになるのではないんだよ」と。「人は病気で死ぬんじゃないよ。どんなに病気があっても、戦争があっても、縁と寿命で生きていて、縁と寿命で決まるんだよ」と。
いったい、どこでそれに気づいたのでしょう。おそらく一生の中で繰り返される体験から導いたのではないかと思います。ピカソだったか、「この絵を描いたのは10秒かも知れない。けれど、それを描くに至った全人生の時間が、この絵には含まれているんだ。つまり40何年かの、ね」という言葉を目にしました。歳をとってきての言葉は、そんな芸術作品と言えるのかも知れません。