私だけ

 私だけ、俺だけ。世の中で時々この言葉を耳にしますが、私(副住職)は使った記憶が殆どありません(仲の良かった友達の中で、自分だけ第一希望に落ちた、はありましたが)。そこで、自分なりに「なぜ、この言葉を使わないのだろう」という思考実験をしてみたいと思います。
 よく目にする用法としては、「なぜ私だけ〜なのでしょうか」という疑問形での不遇訴えですね。「周りの友達はみな幸せにしているのに、私だけ次から次へと」「勉強してないって言っていた友達が試験に受かり、懸命にやった私は落ちた」あたりが典型的でしょうか。

形としては「なぜ」という疑問符はついているものの、実際にそれを追求しようとしない態度があいまって、不満を訴える内容になるのですね、「分からない」だけでなく「追求しない」が要素に入っているのは、きちんと指摘しておきたいと思います。

 仏教は、三毒のひとつとして「痴(ち)」をあげています。「無知の知」という言葉のあるごとく、「知らない」こと自体は自覚によって謙虚さや学びの元になり得るのですが、「知ろうとしない」態度が加わることで「三毒の一つ」にまで昇格(?)しているのではないでしょうか。
 そして、「なぜ?」の答えは結局、因縁の中にあると仮説を置くことができます。その仮定ができるかどうかが、答えにたどりつく第一歩であると思うのです。答えにたどり着くときは、たいがい抽象的から具体的へ探していくもの。「因と縁が作用しているとしたら、それぞれどのようなものか?」というのは、どんな問題でも使える定番の初手ということになります。

 あとは、ありがちな「疑問文自体が抽象的すぎて、具体まで落とし込めない」という「質問自体の悪さ」があり得る。ぼんやりと「幸せになりてぇ…なんで俺は幸せじゃないんだ?」的な、ね。

 ということで、「答えを探そうとしないままで、疑問は口にしない」というあたりが私の行動パターンであるように思います。ぼんやり浮かんだ疑問は、具体と抽象を使いながら答えのでる(ある)形にしていく。だから「なぜ…?」が本当に疑問文として使えるのだろうと思います。そしてまた、抽象度は高いけれども「因縁」という答えあるいは仮説を持っていることが、冒頭の課題への答えとなるように思います。

追いかけ続ける問いかけの答え 答え 答え 答え 答え 答え …

moroha 五文銭

前の記事

ニーバーの祈り