良薬・忠言
コミュニケーションが大切、とこれだけ騒がれ、そのための手段も昔より遥かに充実しているはずなのに、コミュニケーションの問題がたくさん起きるなぁ、と感じます。それは「手段の有無・豊富さ」ではなく違う所に原因があるように思えるのです。今回は、現代の死語ナンバーワンではないかと思ってしまう、「良薬口に苦し」を扱ってみます。
まず、起源は孔子の言葉にあるようです。「良薬は口に苦けれども病に利あり。忠言は耳に逆らえども行いに利あり」と、対になっているものですね。並列というよりも「具体例と意味」といったところです。また、それらを合体してか、「苦言は薬なり、甘言は病なり」という言葉もあるそうです。
ただ、シンプルに考えて、「よく効くけれど、別に苦くはない」薬はあるはずで、そうなると薬は例え話で、伝えたいことはやはり後者なのだろうと思います。
言葉自体の正しさはおそらく変わらないと思うのですが、現代では「人を傷つけてはいけません。人を傷つける可能性を排除しましょう」という、「分かりやすい、が同時に単純すぎる」理念が広まっていることで、それが却ってコミュニケーションのトラブルを引き起こしているように思います。
私が子どものころは「無闇に人を傷つけてはいけません」「故意に人を傷つけてはいけません」という条件がついた、もう少し部分否定的な話だったと思います。
この変化はなぜ起きたのでしょうか?
想像ですが、①外国語で表現しようとすると、手持ちの語彙が少なくて単純な表現になってしまう ②メールやメッセージなど、キー操作が面倒だから、あるいは容量制限があるから短文を多用するようになった ③情報過多の世の中で、短文でなければインパクトが弱くて伝わらなくなった あたりが原因と考えられます、私には。
昔の「無闇に」「故意に」は、寛容さというか「やってしまうこともあるよね」という前提が含まれています。そして、それをリカバリーするための「謝る」ということも想定されていたはずです。しかし、条件なし「(何があっても)人を傷つけてはいけません」には、その寛容さはもうないような気がします。同時に「謝る」ということの価値も低下する。故意も偶然も関係なく、「傷ついた」のは主観ですから、そう感じた時点で「相手は悪である」という価値判断になり、それが発火してトラブルになる…そんな形が見いだせるのではないでしょうか。「無闇に」という部分否定が共有されていれば、「傷つけられることもあるよ。自分だって傷つけていることはあるかも知れないし」という構えができますが、それがないと主観がすべて。パッと反応して泥沼化…しやすそうですね。
そもそも、この故事成語自体が喩え話をもってしているように、忠言というのはむずかしいもの。相手を諌めようとするときに「良薬口に苦しと言うじゃないか。まずは受け取ってごらんよ」というクッションとして使われるものです。「苦いものは食べたくない」のは理解した上で、なお伝えてくれるのですから、まずは口にしてみる(耳を傾ける)状況をお互いが作らなければならない、と思います(これがまた難しいんだ)。