人生を遊ぶ

 ある方から、御母堂のお葬儀を依頼されました。「お墓は他所にあるのだけれど、お葬式は面識のある人に頼もうと思って、君にやってもらえないか」とのこと。思春期に大変お世話になった方ですので、恐縮しつつお引き受けすることにしました。

 具体的な相談を進める中で、「お戒名はどうしましょう」となりました。ご本人は仏様や寺社仏閣に興味があり、いろいろとお参りしていたとのこと。仏教に親しみはあるけれど…という距離感でした。意思のはっきりした方で、「これこれの字を入れて欲しい」とのご希望を聞いてあったそうです。

字の希望は、お戒名に反映させることもできるけれど、「自分で決めました」は戒名にならないから(戒を受けたことの証にならないから)、その点はご理解いただきたいところだね。

実際、お亡くなりになった時の相談で、私から「何か希望の字はございますか?個人様の人となりを偲べるような・大切にしていた価値観とか信条のようなものはありますか?」と伺うことは多く、字が選べた場合は何とか組み込んだお戒名を(もちろん、全体としての意味も通るように)考えます。

 その中で、今回は「遊ぶ」という字が入っていました。大人としてはなかなか扱いが難しい字でもあります。現代的な感覚で見ると「仕事や勉強をしないで遊んでばかり」といったネガティブな面が浮き上がります。人生の終わりにあたって、「遊」という字を選び、残したい。坊さんから見れば、「お戒名にどうやって、これを組み込みか?」という問いかけでもあると言えます。
 しかし、教育の面から考える「遊ぶ」は、なかなか意義深いものであります。「遊びとは何か?」を考えると…

  • 「名のない遊び」という言葉が示すように、基本的に名前がある。
  • ルールや枠組みがあり、それを逸脱すると遊びを変質させる(壊す)ことになる。
  • ゴールや目的がある。勝ち負けがつくことがある。
  • ルールを守った上で、工夫することができる。

 次に、仏教の視点から見ると、観音様のなかには「遊戯観音(ゆげかんのん)」という像もあり、観音様のはたらきを「娑婆で遊ぶ」と表現されることもあります。仏教で扱う「遊」は、悪い意味ではないようです。(観音様は阿弥陀様の脇侍、いわば補佐役です)

 さて、ここまで来て「人生を遊ぶ」という言葉がどんな意味か考えると、なかなか味わい深いものがあると思います。

人生には目的がある。それは、幸せに生き(続け)ること、苦から離れることである。また、人生にはルールがある。5つの戒を守る(できるだけ破らない)ことである。それを逸脱すると、ゴールに辿り着けず人生そのものを壊すことにもつながる。人生の終わりにたどり着くゴールは人によって異なる。またそれを序列化することはできない。そして、たどり着く道筋は、自分で決めて自分で工夫して歩んでよい。どの道筋を歩むのも自分の自由で、それはいつでも行使することができる。

 そして実は、観音様の「遊ぶ」は余裕・ゆとり・リラックスといった状況で動くことを示しているようです。これまた子育てにおける「遊びの大切さ」と繋がっているようで興味深いのですが、また何れの日にか…。南無阿弥陀仏。

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