お十夜ご報告

 本日午後1:30より、令和2年度のお十夜をお勤めいたしました。6月の施餓鬼会に続いて、皆様のご参拝を頂けない中でのお勤めです。前回も感じましたが、お総代さんがお参り下さっているとは言え、寂しさを禁じえなかったです。コロナの心配を感じている方・お寺に行かない不安を感じている方、双方とも極端ではないけれど「何となく」の方、みなさんがいい塩梅と感じてくださることをおこなって行きたいと考えております。

30分に短縮してのご法話も、前回に引き続き私が務めさせていただきました。「お十夜」ということの起源から起こして、「状況によって、行いやすくなったり行いにくくなったりと、価値は異なりますね」という因縁の話へ。きっと浄土宗が起きた頃は、「お念仏だけで!」というのが画期的だったのでしょうけれど、更に時間が下ると「この世でお勤めするのって、本当に大変!」ということが改めてクローズアップされたのでしょう。

 「お別時」と呼ぶ念仏会の開き方も、「時間と場所を特別に定めてやろう」という、「いつでも、どこでも、誰とでも」をさらに助けるような仕組みなのだろうと考えたりします(勉強も似ていますね)。

ともあれ「原因、だけではなくその後の環境が、今それが持つ価値を決める」ということで、hasunoha の問答を一つ紹介しました。「自分の過去の行動を悔いている」というもので、私が見るところ、このコロナ禍で増えていると感じていたからです。これに仏教の考えを使って、どう答えるか。その一例をご紹介しました。

 物事の価値は原因と環境により決まるのだから、「あれさえなければ」という原因にばかり目を向けても仕方ない。過去は消せないのだから、今それについて何ができるか?に目を向けねばならない。今からでも相手に会い、謝るなら痛みは変わるだろう。

 それができないなら…。今後同じことをしないという誓いの素になるなら、人生を支える経験となろう。今ここに居てできることがあるなら、それをしましょうよ、と。

以前、増上寺におられた椎尾上人は、「我々が手を出せるのは、いま・ここだけなのだ」とおっしゃいました。全ての価値は縁によって変わり続けるのなら、全ての価値は今からにかかっているのです。

 「備あれば憂なし」という言葉は、未来にさえこの法則が成り立つことを示しています。「先のことについて、どうしよう、不安だ」と言っているだけではなく、何かしら備えた行動をとれば、憂つまり気持ちの面では不安も軽くなるでしょうということなのです。 そんな内容でお話しさせて頂きました。

さて、今回の反省を述べましょうよ。

今回は、きっちり音声を拾っており、「聞こえる」という意味では及第点だったと思います。しかし問題もありました。「鐘の音が大きいとレベルオーバーする」「木魚の音が悪い(ほぼ全て割れている)」「副住職の回向が早口すぎる」です。早口については、幸い「録画を見直す」ことができたので、「あれ?ウチはちゃんと読んでくれたのかな?」はご安心いただけたのですが、自分で見ても確かに早口すぎでした。音の大きさは、リアルで誰かに付きっきりミキシングしてもらわなければ難しそうです。

 来年度は、どうかご参拝いただける形でお勤めしたいものです。ともあれ、例年とほぼ変わらぬお塔婆の建立を頂けたことに感謝し、これからも真摯にお勤めして参りたいと存じます。

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