開基

 中台山医王院光圓寺は今から約1,300年前に誕生された行基菩薩の開かれたお寺と伝えられています。行基というお方は大変偉い方で、当時日本の文化の中心地でありました奈良で学問をし、修行を積んで立派な僧となられました。信者の方も多く、いつも1,000人くらいの人が従っていたと伝えられています。そして御仏の教えを説くばかりでなく、諸国を巡って、橋を架け、堤を築き、路を修理し、田を開き、池を掘り、港を置いて大衆を利益し給うたということです。お寺も合計49も建てられ、また、施薬院と言って病院のようなものを建て、病気を治し、霊験あらたかであったと伝えられています。日本で初めて大僧正の位を朝廷から授けられ大菩薩とも呼ばれました。82歳で入寂され、弟子が3,000人もあったと言われます。

江戸時代

江戸名所図絵(3)および続府内備考(69)は共に江戸時代の書物ですが、そこに縁起が書かれています。それによりますと、

光圓寺は伝通院の西二町あまり、久保町というところにあって伝通院の開山の了誉上人が復興した。昔の開山は行基菩薩で、後に浄土宗に改められた。御本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作であります。このお寺を中台山と呼ぶのは、昔この辺りを中台村と呼んでいたからであります。このお寺に本木薬師如来の像があり、行基菩薩の御作で、慈母薬師女(病気平癒の仏)の御姿をうつし作られたもので、女性の姿であります。

 続いて、「縁起に云う」と言って伝説を掲げております。天平13(741)年、行基菩薩が43歳の時、東の方の国の人々に教えを広めようとして、まず南紀州の熊野神社に泊まりがけで参詣をして奈良へ帰る路の傍らに大きな杉の木がありました。これを像の材として仏像を作ろうとその木を切って、心に誓って思われましたのは、「もし御仏様のこころにかないますなら、この木を流しますから縁のある土地に到着さしてください」と。ご自分は全国を回り東の方の国に行かれ、この小石川の土地にいたり給うと、紀州から流された杉の木が小石川という入江に流れ着いていました。(注釈して、大昔はこの辺りから高田のあたりまで神田橋の内外すべて入江で河をなしていたと記されています)。これは御仏様のこころであると自分のやさしい母のため香や花をささげ、礼拝して信心のまことをおつくしになりました。そうすると目の前に薬師女が金色の光を放って表れました。行基菩薩は、例の流れ着いた杉の木の本木で御本尊様をかたどって刻み、この土地に一つの寺を建てて安置申し上げました。

それが現在お寺に伝わる本木薬師様であると申します。それから六道を迷う人々を救うために、末の木を持って6体の阿弥陀様を刻み、六ヶ所に分かち、これが江戸の六阿弥陀と称されるものと言われます。その時、行基菩薩がついておられた銀杏の枝を記念に逆さに刺されたのが根を出し戦災まで丈夫だった、銀杏の木であると伝えられています。文部省指定の日本一の大銀杏で(原文ママ)植物学者の有名な三好学博士は樹齢を1,000年以上と折紙をつけられました。惜しくも戦災で焼失しましたが、今根から若芽が出ており、あたかも古木を支えるが如くになっております。

 光圓寺は一時荒廃いたしましたが、江戸時代の三ヶ月了誉上人という、小石川の伝通院をお開きになった方が復興されました。それから浄土宗に改められました。今から600年程前に80歳で寂されました。大変に偉い方で11歳の時に、「博く(ひろく)百家内外の書を自見す」と伝えていますから、幼い時から日本の、また中国の本を読まれた様子で、聡明なお方であり、多くの本を書き、沢山の信者があり、歳をとってから小石川の極楽水という所(今もお寺があります)に隠居されました。その時分に光圓寺を復興されたのでありましょう。

 なお、続府内備考には大きな樒の木があり、これにまつわる話も載せられています。また、御地蔵様があり大層御利益のあることが書かれており、古い図には立派な御地蔵堂ものっています。現在境内におまつりしてある御地蔵様と思います。いつかはお堂も作り、おまつり御供養したいと思っております。その他の御宝物があったことが記載されています。他日詳細にお知らせしたい所存でございます。江戸時代の図面によりますと、広大な敷地のようであります。現在でも2,300余坪あります。このように非常に由緒があり、立派な歴史があります。

ご本尊と修復事業

 御本尊様は昭和20年の大空襲に御仏体のみをお出し申し上げました。御台座、御後背を新調申し上げる際、御仏体の御腹中から書類が出て参りました。それによりますと寛文4年(今から332年前)御本尊様を御修復申し上げた時のものであり、これによりますと恵心僧都の御作で寛文4年までに679年経っているというのですから大層お古い尊いご本尊様です。今から300年以上も前に御修復しなければならない程に破落していたというのですから、極めて古い頃の御作ということになります。58人の方々が、2年間借して資金を集め、御修復申し上げたということは有難いことです。

(本「沿革」は、昭和42年に現本堂改築の折、作成された趣意書による。)