ニーバーの祈り
先日、お坊さん相談サイト「hasunoha」で出会った質問です。自分自身なんとなく親しみもありカッコイイと思っていたのですが、あまり深く掘り下げて考えていなかったので、試みにやってみました。
ニーバーの祈り
神よ、
日本語訳 大木英夫
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
私の印象としては、全体としての構造が「神様、私に○○を与えてください」であるところはキリスト教らしいなぁと思いますが、ものごとを「変えられるもの・変えられないもの」に二分している点と、それらへの対処が「勇気・冷静さ」であるところが面白いと感じるのです。
そして、質問したいことは
ニーバーの祈り
仏教版の「二ーバーの祈り」を知りたいと思いました。
「変えられるもの」と「変えられないもの」の線引を、仏教ではどのような所に置いているのですか?(私による解釈含む)
さて回答趣旨はこのようにしました。
仏教では「変えられるもの」「られないもの」という固定的な区別より、物事をもっと流動的に捉えています。全ての物事は縁起によって有機的に成り立つので、すべては「可能性のある状態」であって、線引は難しいです(できません)。
そして私が示した「変えられない」ことの例は、「石を池に投げると、それは沈む」でした(それだって、水が入っており凍っていなければ、ですが)。
元の質問では「自分としては、他人の考えや行動は、変えることができない」と思っていたほうが(過度な期待をせず苦しまないで済むので)良いかと考えている、とのことでした。
イヤイヤ、コンビニでレジに行き、商品を差し出せば店員を動かす(精算作業をさせる)ことはできるし、「ありがとう」と微笑めば気分良く仕事を続けられるように…できるよね?
はい、「私とコンビニ店員」という関係(つまり縁)であれば、その程度の「変える」が可能かも知れないですが、「私と息子」であれば範囲も変わるだろうし、「私と妻」であればやっぱり可能性も変わる。見知らぬ人だって、「すみません、道を開けてください」くらいなら行動してくれる可能性は高いと思います。気持ちだって、結構言い方次第のようにも思いますし。
でも、そういった具体性というか可能性を取っ払い、白黒2値にしようとすると、やっぱりさっきの「石は沈む」程度になってしまいそうな気がします。そして、できることは「自分の行動の一部を変える(というか、「操る」イメージなのかな?)に限られます。人間、自分の意思で呼吸は(しばらく)止められますが心臓は止められませんから。ものの認識だって怪しいものです。「あの人は悪い所ばっかりじゃない。そう探そう・見よう」と思ったって、いつの間にか「やっぱりあいつは…」が自然と沸き起こったりしますから。
ということで、一期一会と言いますか、物事はやっぱり縁によっていて、自分も対象も変化し続けているのだから「線引はできない」が仏教の認識だと思います。最後の「識別する知恵を与えたまえ」ですが「その時・その縁で可能かどうか、は神のみぞ知る」といった感じで、「やってみて、傷つくこともあるだろうけれど、それは避けられないんじゃないか?自らの成長によって傷つくことを減らせる可能性はあるけれど、ゼロにはできないよ。人間だから」と「傷つくことは甘んじて受けよ」、そのために神様や仏様の救いがある、とまとまるような気がします。