生きる意味を問う
先日、参加している「お坊さんに相談しよう」というサイトで、「生きる意味が知りたい」という質問がありました。その方はどうやら、親の借金を返すために昼も夜も働き、仕事場でも「自分と仲良くしてくれる人がいない」「自分ばかりミスを指摘されたり」することで、冒頭の質問となったようです。
「働く意味」であれば「借金を返済し、自分の生計を立てていくため」という答えはあるでしょう。しかし、それと同じような文脈で「生きていることの意味」を問いたくなったのでしょう。実にこの問いは、「自分が苦しい時」にこそ生まれるものです。自分の生活がそれなりに成り立っており、自己有用感や自己肯定感がある時には「思いも寄らない」問いです。こういった問いを発する事は、「誰にでも」起こり得ますが、「いつでも」起こる問いではありません。赤ちゃんが「バブバブ。私の生きる意味は何?」と聞いたりはしないでしょう。
そもそも、「意味を問う」というのはどういうことでしょうか?
意味を問う、というのは何でしょうか。「今この宿題をする意味は?」というのは、「今この宿題をすることで、将来わたしの身に何が起こるだろうか」という内容ですね。つまり未来を聞いているのです。「お金を払う意味」は「物を手に入れるため」だし「片付ける意味」は「将来また使うため」だし。何らかの行動があり、それが終わる事で何かが起きる。そういった流れの中で「意味」は出てくるのです。
つまり、現在進行形の行為については意味は分からないのです。物事が終わってから、意味というのは現れる。過去について「あれは、こういう意味だったんだ」というのが分かることはあっても、「今行っていることは、多分こういう意味があるんだろう」という推測をするしかないのです。つまり、「生きることの意味は?」というのは生きることが終わるまで分からない。問い自体が成り立たないのです(時はいつ始まった?と同じ、言葉の誤用です)。
ですから、恐らくこの質問は、「思考停止したい」時に浮かび上がるのだと思います。答えのない問いに取り組むことは、「他をやらないで済む…何かから目を逸らす」効果はありますから。相談を受ける方は、その「現実から目を逸らしたいほどの辛さ」を受け止めて行かなければならないと思います。
お釈迦様も「無記」と言って答えない問いがあったそうだね。「答えられない」ではなく「答えない」ことで何かお諭しというかコミュニケーションがあるんだろうね。