悪くはないが、ダメなこと
世の中には、「悪いわけじゃないけれど、ここではダメだよね」ということがあります。
たとえば、元気に走り回ることは、子どもにとってはとても良いことです。けれど法事の最中、本堂で全力疾走はやはり控えてほしい(光圓寺では、7歳未満に限って許可)。大きな声で意見を言えるのは素晴らしい資質です。でも、誰かが悲しみの中にいる場面では、その勢いが更に心を削る結果となることもある。
行為そのものが「悪」なのではありません。ただ、その縁、その場、その関係の中では「ふさわしくない」ことがあるのです。この2つは似ているけれど、ちがいます。
この見分けは、言葉が素早く流れて行ってしまう現代において、なかなか難しいと思うのです。そこで仏教の智慧。

仏教では「因縁」という言葉を使い、この2つを区別しています。
「因縁」とは、物事は単体で存在するのではなく、関係の中で意味を持つ、という考え方です。
だから、「正しいか・間違っているか」よりも、「この縁の中で、どうか」という視点が大切になります。
たとえば、「厳しさ」。教育の場では必要かもしれません。でも、疲れ切った人に向ければ、それは追い打ちになる。同じ「厳しさであっても、場所が変われば意味が変わって来るのです。
私たちはつい、物事を「良い・悪い」で切り分けたくなります。けれど実際には、「悪くはない。でも、今は違う」という微妙な領域がある。そこを見極める力こそ、大人の成熟というものなのかもしれません。
そして、裏返しとしてもう一つ。
自分の価値観や願いが、何かの場では「ダメだね」と言われることがあったとしても、それが即「悪い」ということではないのです。価値観は、誰かの縁の中で調整されることはあっても、根こそぎ否定されるものではない。
ダメなのは、「悪い人間だから」ではない。ただ、今とは合わないだけ。
そう思えたとき、少しだけ世界は柔らかくなります。善悪で裁くより、縁で見る。
そんな目を、少しずつ養っていきたいものです。
