仏教の言葉で世界を捉えたい

 このホームページの副題は、「仏教の視点で世の中を視る」となっていること、ご存じでしょうか。実はこの言葉…この思いを持ってホームページの発信を行っているお寺さんは多くて、私の勝手ではありますが「おお、同志が!」と喜んだりしています。

 私見ですが、お釈迦様が説かれたお経には、「〜を○○と呼ぼう」といったものが多く現れているのですが、日常使っている『浄土三部経』などではそういった定義が多く現れておらず、その意味で「仏教の言葉で世界を捉える」というのは、浄土宗的というより仏教的な階層の話です。

 この思いは、自身の「普段使いの仏教を」という思いつきと、ほぼ同一だと思っています。「お葬式の時や、年回忌の時だけに接する仏教ではなく、もっと日常的に仏教を使ってほしい、使えるようになってほしい」というのが、私の住職としての心願であり、その具体的な姿が副題になっている…という訳です。

  • 理解するとは、許すこと
  • 怒りは願いの裏返し
  • 仏法僧の捉え方
  • なぜ?の目的地は因縁による
  • hasunohaから考えたこと

 特に今年になって書いてきたことの、実に半分程度がこの「仏教の言葉で世界を捉えたい」という動機によるものです。
 今ふと気づいて、「ここまで書いた文章の、横文字をなるべく消してみよう」と試みたのですが、そもそもかなり使っていましたね、カタカナ文字。もちろんそれが悪いという訳ではないのですが、何だか気になったのです。まぁ生活現場においては、「それがどれだけ頻繁に使われているか」こそが大切なので、「何由来」であるか?はそんなに重要ではないのでしょうけれど…まぁ「坊さんとしての矜持」でしょうかね。…それはさておき。

仏教の言葉をあてはめる→仏教の考え方を観じる→深い理解に到達する

最近の実感

 という感じがしているのです。上記「仏法僧の捉え方」も、その触媒となったのは「ゴールデンサークル」というマーケティングの言葉…「まずWHYよりはじめよ」でした。

「物事を伝えるには、Why,How,Whatの順で伝えると、行動(購入)に繋がりやすい」というものだね。

「ほほう…何の為に、どうやって、何を、ということか」と理解したら、

これって、仏法僧のことじゃないの?悟りを得る(仏)為に、お経を示され(法)、実践する身体性や仲間の存在。(僧)

で、先日の記事に繋がったというわけです。そんな視点を持ってhasunohaの質問を読んでいたら…「回答は、この仏法僧を意識して書いていくべきじゃないの?」という考えにいたり、「この人は、願い(仏)が不明なの?やり方(法)が見つからないの?一歩(僧)ふみだせないの?」という問題の分類ができるようになりました。
 そして、折からのAI普及。「AIは人間を超えてきた」と言われても、それは法(言葉で示される)の分野に限られた話。仏(願い)は質問者を起源とすべきだし、僧(身体性・同行)は本人+周囲の人間が担うよりありません。そして、法にしても、数多あるお釈迦様の言葉のうち、どれを紹介するのが最適か?というのは人間の判断力も大きいです。

 といったことを様々考えて…現在、本の執筆に取りかかっています(言っちゃった)。還暦の出版を目指しておりますので、あと約2年後…。自分の人生の一つの到達点になるか!?

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