お十夜お勤めいたしました。

ありがとうございます。

 去る27日(月)には、お十夜会をお勤めし、多くのご縁の方にお参り頂きました。誠にありがとうございます。ここ数年、曜日(土日か否か)によってご出席かなう方の人数が大きく変わることから、「現役の方が、お休みの日でも出席下さるのだ」ということが分かり、これまた有難いことです。

 前日まではお天気が不安定だったのですが、有難くも薄日の差す一日で、かと言って寒くもない中、無事にお勤めをすることができました。近隣には「もう住職になって30年以上」という方もいらっしゃる中、まだまだ3回目という新米ながら、回数自体は多く参加していることもあり、表白(ひょうびゃく=何のためにこの法要を行うのか)の意味も自分なりに噛みしめながら読ませて頂きました。
 多くの方のお参り、そしてお志もお預かりし、大変ありがとうございました。今回はピンマイクも使ったので、中継にはかなり私の声も明確に入っていたと思います。良かったらご覧下さい。

自行としてのお十夜

 さて、6月の「お施餓鬼会」と根本的に異なるのは、お十夜が「自らのためにお念仏を称える機会である」ということです。つまり基本的に「自分がこの世の命を終えたのち、極楽へ往生できるように縁を積んでいく」のが目的です。では「お十夜」の根拠は。

日一夜勝在無量壽國爲善百歳所以者何彼佛國土無爲自然皆積衆善無毛髮之惡於此修善十日十夜勝於佗方諸佛國土爲善千歳所以者何佗方佛國爲善者多爲惡者少福德自然無造惡之地唯此間多惡無有自然勤苦求欲轉相欺紿心勞形困飮苦食毒如是悤務未甞寧息

仏説無量寿経

 さて、このままでは現代人には何とも読みにくいです。厳密性はやや低いですが、現代文にすると…

この世で一日一夜、善い行いをすることは、無量寿国で百年にわたって善を行うことよりも勝(すぐ)れている。

なぜかというと、あの仏の国土(無量寿国)は、無為自然のままであり、あらゆる善を積み重ねた清らかな世界で、毛先ほどの悪すら存在しないからである。

この娑婆世界で十日十夜、善を修めることは、他の仏の国土で千年にわたって善を行うことよりも勝れている。

なぜなら、他の仏国土では、善を行う者は多く、悪を為す者は少なく、福徳も自然に備わっていて、そもそも悪を造ることのない国である。

ただこの世界(娑婆)においては、悪が多く、自然に任せるということができず、

欲を求めて苦しみ、互いに欺き、心は疲れ、体も苦しみ、苦いものを飲み、毒のようなものを食べて生きている。

そのような忙しさの中で、人々は一時も安らぐことなく生きている。

 ということで、一言でつづめて表現するならば「この娑婆では、煩悩に突き動かされて忙しく=心を亡くしているから、その中で善行を行うことは非常に尊いことだ」と言えるでしょう。その尊さたるや、36,500倍です。もう途方もなく「良い行いをするのは難しい」というわけです、この娑婆という環境は。

善行とは何か?

 では「善い行い」とはなにか?先ほどのリンク先にある浄土宗の公式見解によれば、即ち「お念仏をおとなえすることが、最も功徳をいただける」なのですが、

それ以外に善行はないのか?と、若干突っかかってみたくなるのです。

 ということで、少し深掘りしてみました…そもそも大乗仏教における善とは、「自分より他人のために何かをすること」であるはず。無量寿経の中には「三福」という言葉で、整理を行っています。ただそれは言葉が難しいので、中国の善導大師がカテゴリとして表現し直しています。

  • 第一の福を世俗善と名付けて世福。親孝行や先生・年長者に仕えることです。
  • 第二の福を戒善と名付けて戒福。仏教の戒めを守り正しい行動をすること。
  • 第三の福を行善と名付けて行福。悟りへの願いを起こし、読経など行うこと。

これらは、極楽へ行く為の正しい原因である、と述べているね。まさに大乗仏教そのままだ。このリンク先とか、(西本願寺派だけど)丁寧に説明しているね。

 勿論これらは「良いこと・大切なこと」です。ところが、法然上人は、最終的に「お念仏をお称えすればよいのだ」と一本化してしまいます。何だかもの凄い力業(ちからわざ)。それを成し遂げている理屈が…こちら!

順彼仏願故(かの仏の願いに順ずるがゆえに)

法然上人「開宗の文」 原典は善導観経疏散善

 先日の「選択できない私達」の中で出てきた「私達ではなく、仏さまが選んでいる」という理由ですね。これは「開宗の文」と呼ばれていますが、法然上人が作った言葉ではなく、発見したもの。これこそ「他力本願の発見」だなぁ…と思うのです。
 かなりの分量になってしまったので一旦切り上げますが、「娑婆であっても、これだけの善行はあるし、行える人もいるだろう。しかし、しかししかし、お念仏でいいのだ。仏さまご自身が選んで下さったのだから」というのは、まさに革命的な視点であり、しかし「他の行を助行として脇に置く」…というも相当な決心だったに違いありません。だから…法然上人は一日6万遍ものお称えを日課にしたのでありましょう。10回お称えするのに8秒くらいはかかる(自分調べ)のですから、6万回と言えば13時間です。これは恐らく、信心のなせる業。「親孝行しなくてもいいのか!」と問われても、この圧倒的な時間の使い方の前では、「大丈夫です」と答えられるのだろうな…と、改めて感慨を深くしたのであります。

今回の振り返り

お十夜の御礼を書き始めたら、その意味合いとかまで深掘りしてしまいました。でも「自分なりの疑問点を持って世の中を見る」のが大切な時代、それが少し達成できたような気もします。
 今回は、アイキャッチとディスクリプション作成をAIに行わせました。このお香だか炎が謎ですが、文章が補っているのでヨシとします。