勝ち馬に乗りたい

 ひょんなことで、「アトムの童」というテレビドラマを見ました(現代は便利ですね)。これは、2022年の作品。その中に出てくる悪役(小物)の台詞が、妙に引っかかったのです。

勝ち馬に乗って、何が悪いんだよ

 いや、これ2026年の今の日本の空気を表しているなー、と思って。

 すでに「価値観の多様化」「不確実性の時代(VUCA)」と言われ、「価値は一定ではない」とみんな思い知っている…はずなのに、(先の選挙では)一党が圧勝。昔だったら「とにかく現政治には反対!」していたであろう、若者世代からも、かなりの指示を得たようです。私には「政治を良くしよう。私個人はこう考える」よりも「勝つ方に賛成しよう」=勝ち馬に乗ろうという雰囲気を感じているのです。

「自分はこう考えて、一票を投じる」というのが市民社会の、民主主義の前提だった筈ですが、どうも「それより、多くが行く方へ」という指向が強く出ているように感じるのです。

 実際、私も(どこに投票したかは別ですが)、その「強そうな方」にいると、確かに安心するのです。それは嘘偽りない本心です。

 でも…そこに立ちながら、同時にふと思うのです。「この安心は、私の不安を取りあえず解消しているだけではないか?」と。


 他人様の相談をよく目にしているせいか、「自分の行動原理に何があるのだろう?」は、ついつい気になるのです。

 これは、浄土宗的に言えば、先日の「信機」にあたります。自分のありのままの…一歩掘った所にあるものは何か?自分を突き動かしているものは何か?それを捉えたくなる習性が芽生えているのです。有り体に言えば、「自分の弱さ・不安はどこにあるのか?」と。

 ところが、今回の選挙結果から感じるのは、(何となくですが)信機という、このプロセスを抜きにして、「信法」に飛びついているのではないか?更には、「自分も同じ行動をしているのではないか」という疑いです。「私はどういう人間で、何を恐れ、何を願っているのか」を棚上げしたままの「強い言葉・正しい主張・多数派」。AI時代と相まって、いわば「信機なき信法」という時代の潮流に巻かれているのではないかと。

 先日、若いお坊さんの相談がありました。「自分は副住職として勤めているけれど、正直言って極楽とか往生とかが信じられない。だって見たことがないから」というものでした。これも、「いきなり正解に至ろうとしている」姿に見えます。浄土宗僧侶にとって「お念仏」は絶対の正解。けれど「揺れている自分=信機」について明確な自覚のないまま、信法に向かおうとしているのではないか…と。その問いは、即座に自分に返ってきます。「俺、ポジショントークしているのか?そこ自覚しているのか?」と。

 私はなにものか?何を大切にし、何がイヤで、何を願っているのか。そういう「自己を丹念に見る」という時間、今はもの凄く奪われていると感じます。それなくして(急いで)信法せねばならない、それなくして(急いで)行動を決めなければならない、そんな激流の時代に、いま私たちは投げ込まれていると感じるのです。
 自分を取り戻す時間を、どこかで持たなければ。そんな思いに駆られています。

…とか言って、こんな深夜まで文章書いてる(笑)。だけどこれ、恐らく「自分を大切にする」ということのプロセスだろう…と思うのです。

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