怒りは願いの裏返し

お坊さんへの質問サイトで、印象に残る相談を目にしました。

内容はこうです。

「信頼していた相談員に裏切られた。事実をもみ消され、自分も解雇された。今は生活も安定し、恵まれた環境にいるが、それでもその人のことが許せない。どうすれば忘れられるか?」

hasunoha「私を裏切った相談員を許さない」

感情が揺さぶられるエピソードでした。
 相談者の怒りは正当なもののように思われ、しかもその怒りが日常生活をじわじわと侵食している様子が、行間から伝わってきます。

 仏教では、怒りの感情そのものを否定しません。むしろ、「怒りとは、大切なものを傷つけられたときに生まれる、心からの反応」として、正面から見つめようとします。

そして、さらに一歩踏み込んで考えるのです。

 たとえば、『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』という仏教書には、こんな趣旨の言葉があります。

「感情は、智慧と方便によって変容させることができる」と。

 つまり、怒りという激しい感情も、智慧(物事を正しく見る力)と方便(相手に合わせたふるまい)によって、柔らかく、力強く、他者と自分の助けになる形に変えることができる――と説くのです。

もう少し分かりやすく言えば、

怒りは「願い」の裏返しなのです。

「裏切られたくない」という願い。

「人として誠実でありたい」という願い。

「正しいことを大切にしてほしい」という願い。

それが裏切られた時、怒りが湧いてくる。「失ったとき、その大切さに気づく」ようなものです。

 だからこそ、その怒りの力を、相手に向けることから自分自身の「方向性」に変換していくことが、仏教の目指す道なのです。

具体的には、こういうことです。

「私はあんな裏切りはしない。だからこそ、誠実に生きよう。」

「誰かが苦しんでいる時、私は見て見ぬふりをしない。」

「許せない、と思うその感情を、私の願いの証にしよう。」

 これは簡単ではありません。とてもエネルギーのいることです。

 「怒りは沈めようとしても、消えないことがある」のであるならば、怒りを変換することで、超えていくという発想の転換です。

 仏教では、怒りを三毒(貪・瞋・痴)のひとつとして扱いますが、それは怒りそのものを悪とするためではありません。「扱い方を間違えると、自分をも壊してしまう」という智慧の表現なのです。
 実際、今回の相談者も「忘れよう」としているように見えて、(多分)心のなかではその怒りを育ててしまっている。

そうならないためには、「具体的行動」が必要です。

このように、「私の願いは、こういうものだった」と明らかにし、それを言葉や行動で表していくことが、怒りの沈静化にはとても効果的なのです。

たとえば――

・「私はどう生きたいのか」を改めて紙に書き出してみる

・「怒りがこみ上げた時は、南無阿弥陀仏と称える」

・「信頼できる友人に、自分の“願い”を話してみる」

 仏教は、現実の感情や苦しみの中にこそ、救いの入り口を見いだします。あなたの中の怒りが、あなたの願いとつながったとき、それはきっとあなた自身を強く優しくしてくれるでしょう。

今日の一つの問いが、どなたかの日常の支えになりますように。

全般

前の記事

カエルが解説してくれた