全部を許さなくても、極楽で何とかなるらしい。
3月のいろいろな忙しさにかまけて、「玄関の棒人間イラスト」の更新をついに逃してしまいました。そこで探してみたのは「ブッダのことば」。いろいろと見ていくうちに、この言葉に辿り着きました。「全てを理解するとは、全てを許すことである」
ムムッ。とても腑に落ちます。(現時点で)私が考える仏教の目的とは、この「全てを許す」ことではないかと思うのです。なぜなら、「貪瞋癡」の煩悩は、観察・理解不足と密接に関わっていると考えるからです。理解不足だから怒り、理解不足だから貪り、理解不足だから(知らない)。

卑近な例では、何か問題が起きたとき…誰かが遅刻した時に、「だって、目覚ましがならなかったんですもの」と理由を言う。だから遅刻したのか…と「理解すれば許すことができる」。
けれど、その時に「だって(あなたが)電話くれなかったから」と言われたら…「そんなの理解できない(勝手である)。許せない(怒)」となります。

確かにこのメカニズムはあるだとうと思うし、私も仏教者たるもの、この境地を目指すべきではあるのだろう。しかし…本当に全てを許して良いのだろうか?
例えば御釈迦様の命を狙う者がいて(実際にいたらしい)、「そりゃ君が私の命を狙うのも理解できるよ。許そう」とは言わないのではないか?仏教集団(僧・サンガ)を二分しようとする者がいて、「なるほど、君は私の考えとは違うね。分かった、許そう。バイバイ」とは言わないのでは?

いや、言うのかも知れない…
「全てを許す」ことができたら、そりゃ心の平安は訪れるように思う。キリストが磔を受け入れたり、ガンジーの無抵抗主義も、同じベクトルのように感じる。
ただし、これは「自分が殺されることも許す」という訳で、そりゃ流石に行き過ぎじゃないだろうか。これを仏教の旗印に掲げたら、侵略されても仕方ないだろう(私見)。
なのでやっぱり、少なくともこの世を過ごすには「できる限り理解しようと努めよ。許そうと努めよ」という意味であって、「全てを理解しろ!と言っているのではない」「全てを理解しようとする方が危ない」という警句に見えてきました。

いやはや、「この娑婆世界での悟りは諦めて、極楽へ往生してから阿弥陀様ご指導の元で成仏を目指しましょう」が、やっぱり正解な気がしてきた…って私が浄土宗僧侶だから?我田引水なの?でも少なくとも、この考えで救われる人はいるような気がします。「全てを理解しなくたって、許さなくたっていいんだ。それは極楽へ行ってからで良いんだ。」って。
…と、さまざま考えを巡らせてみたのですが、この言葉いろんな「原典」があるようです。①西洋(フランス)のことわざ、②トルストイ(ロシア)の『戦争と平和』、③お釈迦様…時代も地域もバラバラ。逆にそれだけ普遍的なのだろうという気はします。