人生物語(ナラティブ)を思う
年末に心温まる話を聞きました。ある方は以前、化粧品の販売をされていたそうです。しかし、仕事をしている中でふと疑問を感じていました。「まだ前回の化粧品が残っているのに、新しいものを売ろうとしている。これってどういうことだろう…?」そのモヤモヤを抱えながらも、ある日、大切な気づきを得たのです。
「私のお祖母ちゃんのために買いに来ました。お祖母ちゃんはもう、この世から去っていくのが近くなってしまったので、せめて最後のお化粧をしてあげようと思って。こちらの化粧品があったので、選びに来ました」
その時に、気づかれたのですね。「私が化粧品を売っているということは、私が色んな人の人生の場面場面に関わるっていうことなんだ」って。売り場のやり取りの後、「お客さん」が「自分、妻、お母さん、お祖母ちゃん、子ども…」に戻る。それぞれの生活の場、人生の中に、「私が売ったあの品物」が位置付いている。誰かの人生物語のどこかに、私が関わっている…それを見たのではないでしょうか。
また、ホテルで働いていた、という方も
「私が運んだ一枚の皿と料理が、プロポーズの瞬間とか、誰かの人生の大きな一瞬を彩ったんだ」と感じたことを話して下さいました。
人生の中の「特別な日」は、予め分かっている場合もありますが、「あとから振り返って、あの時が特別だった」と気づく事も多いものです。やっていること、は日常的かも知れない。けれど誰かのストーリーが見えると、誰かのナラティブ(=人生の物語)に関われたと思うと、その瞬間は特別な物となる…気づく…のだろうと思います。
これ、仏教では「一期一会」です。会うということは、すでに相手の人生に関わるということ。それが「特別な一日」なのか「詰まらない一日」なのかは分からない。評価は終わってからしかできないのですから、「せめて精一杯の一日を過ごす」。凡夫(ぼんぷ)にとっては、それで充分なのだと思います。