お勤めはボンヤリ聞くのがいいのかも
私の全くの専門外なのですが、非常に興味深い記述を見つけました。「デフォルトモード・ネットワーク」です。これ、機械ではなく脳の中のはなし。「安静時の脳は、正中部(脳の中心部らしいです…図解が分からなかった)が活発に働いている」というのです。「安静時に活発とは?」と思いつつ眺めていると、何だかすごいことになっているようです。
脳科学といえば、川島隆太先生が「何をしているときに、脳のどの部分が活動しているか、視覚的に捉えられるようになった」という技術を元にいろいろ発表されていたね。その後どう進歩したんだろうね。
最近は「ナラティブ」というのに関心があって本を読み漁ったりしているんですが、その中で東北大学の虫明元(むしあきはじめ)さんの研究が紹介されていて、「脳の外側・内側」とか連動具合とかがリアルタイムに分かるようになった…みたいです。
それで、何かの課題をしている時ではない、ぼんやり(アイドリング)の時を見たら、正中部が活動していると。さらに観察を続けると、「何をしているときに、これが活発化するのか?言い換えれば、「ぼんやりしている」とは何をしているのだ?が分かったようなのです。
- 自分から思考を生み出すこと
- 出来事(エピソード)の記憶や想起
- 将来の自分を想像し、思い出すこと
- 相手の視点で心情を理解すること(メンタライズ)
- ストーリーの理解やストーリーを構築(ナラティブ思考)
- メタ認知(自分をみつめること)
これらをまとめて「社会情動性スキル」とよばれます(脳科学から見た変革・挑戦・心の多様性)
確かに、ボンヤリしている時に新しいアイデアを思いついたり、何かを急に決心したり、ふと他人の気持ちが分かったように感じたり、過去の思い出を振り返ったりしています!少なくとも私は。
ということは!ご法事でお経を聞いている時は、ボンヤリが正解なのでは!?故人のことを思い出したり、その視点から今の自分を見直したり、人生振り返って意味付けを考えたり…まさに「ご法事に参加することで、体験してほしいこと」山盛りではないか?
翻って現代は、わたしたちの「ボンヤリ時間」に侵入し、影響を与えようとしているものがてんこ盛りです…ネット上に。ボンヤリ時間を「隙間時間」などと言って何かを詰め込むより、ボンヤリと脳の動きに任せることで、社会情動スキルを醸成する。これって恐らく非認知的能力。OECDの言う「21世紀型の能力」でありましょうよ。
なるほど、面白い理屈に至ったね。で、どう落とすのかな?
いやつまり…朝のお勤めとか、ご法事の時はボンヤリしていていい、ボンヤリを確保しようということかも…。けれど、それて禅宗でいう煩悩に違いないし、ご法事において勤めている側がボンヤリでいいのか?一心に祈るべきではないのか?とか…まだ判然としません。
なので思考途中ではありますが、この「分からない問いに取り組み続ける」ことも21世紀的能力と思って、邁進いたします…(読者のみなさんにモヤモヤを残して終わる…)。
さて今回のブログの問題意識は、「お経の意味を聞いても分からなければ、参加しても意味はないのでは?(意味を学びたいとも限らないが…)」という疑問に私なりの答えを考える中で発生しました。
この疑問は、実はとても自然なものです。しかし、私はこうも考えます。お経を聞きながら故人のことを思い浮かべ、自分のこれまでやこれからを振り返る時間を持つ。それだけでも、法事に参加する意味は十分にあるのではないでしょうか。
静かに耳を傾け、ボンヤリと心を巡らせることで、自分自身の中に新たな気づきが生まれるかもしれません。それはきっと、仏教が私たちに与えようとしている『気づきの場』の一つなのでしょう。