ただの物体|死をどう捉えるか

 先日、「お坊さんに相談しよう」のサイト、hasunohaで、以下の質問がありました。ご質問くださったのは30代の方、ご自身も親御さんもお元気ようです。しかし…

…ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。
 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。
 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか?両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? …

hasunoha「死んだら無になることへの恐怖」

 「ただの物体」という捉え方が、よっぽど嫌なのでしょうね。その見方をしてしまったことが、質問の動機なようです。「ただの物体だと思う、その(ただの物体であるはずの)自分が恐ろしいと感じていること」に、袋小路感というか不安を感じたのでしょう。

 「実体」を探していたら、どうもそれ以外のものもあるようだ。「感情は脳の働きの一部」と整理していても、なぜそのような感情に襲われるのか、そこに「物体という説明では不十分」を感じるのではないでしょうか。あるいは、「全てなかったことになってしまうのでしょうか?」という、喪失への恐れ。これも「物体なのであればそんな恐れを抱くことはないだろう。では、この不安はどこから来るのか?」という問いにつながると思います。

 私も実は脳科学とか流行った時に、結構本を読んだりしました。それこそ、感情は脳の機能の一つである、とか。男の脳と女の脳の傾向の違いとか。なので「人間は物質の働きの結果として生きている」は、基本的に同じ理解なのです。

 ですけれど、「亡くなった後は極楽へ往生する、ってのは霊魂とか魂ということを前提にしないと成り立たないじゃないか。肉体は残ってるんだし」というお話には肯首します(同意します)。

それは、さっきの「基本的理解」と矛盾してない?って突っ込まれること必至だよね。

 そうなんです。でも「何が往生するの?」といった問いに答えるには、それ以外の表現(言葉)が見つからないのです。「父住職は先に極楽へ行って、みなさんが行けばきっと労ってくれますよ」と本当に思っているのですが、「そこで指す父とは、(言い換えれば)何ですか?」と問われたら、「魂ってことでしょうね」としか答えようがないのです。(…そもそも、なぜ言い換えが必要なのかが不明ですが=父という言葉が何を指しているのか未設定では、この問いも成り立ちますまい…)

 ですのでね、よく出てくる話なのですが、「実態がどうであるか」というのと「実態をどう捉えている・理解している・言葉化しているか」というのは一致しないのです。何らかの真理があるとしても、それを言葉で捉えようとする限り、取りこぼしは生じます(このこと自体はお釈迦様の時代から分かっていることです)。

ということは、どんな説明でも実態を表現しきることはできない、ということ?

 そうだと思います。元の質問でも、「気持ちが生じているのは脳の働きの結果だとしても、その働きを生じさせている原理は観察されない」わけで、やっぱり「人間は物体の集合である」と表現するのは不十分なのです。とすると、「説明をする・しようとするのは何が目的なのか?」に立ち戻ってもよいのではないかと考える訳です。

 起きていること・生きていることなどを「説明しようとする」動機は何か?それは「今日の日を生きやすくする」ではないかと思います。生きやすいというのは、健康で明るく前向きということです。そのために「人は亡くなったらみな極楽へ行くのです」という説明を、私は選択している=「信じている」のです。だから相談者さんのような「死んだら全て無かったことになるのでは?無意味なのでは?」に陥らないのだろうと。

 ああ、いつか「信じる、とは何か」を僕なりの言葉で表現してみたいです…今日はここまでで。

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