光明徧照を受け止める私

 今更というか…お経を読んでいて、ふと受け止められた文があります。

光明徧照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨

阿弥陀さまの光明は くまなくすべての世界を照らし 念仏する人々を 必ず救いとるのであります

浄土宗 日常勤行 摂益文(浄土宗ホームページ)

これは、念仏一会という、「南無阿弥陀仏」をずーっと…いくらでもお称えするパートの直前に出てくる言葉です。現代語訳をご覧になると「なぜお念仏をするのか」を説明し、実際にその行為を行うという構成になっています。コレコレだから、お念仏するんだ。さぁ、やりましょう。といった所です。

 もちろん私も今まで何度となく読み、お唱えしてきた所ですが、「これって楽観的な思考を導いているんだな」と気付きました。「大丈夫だよ」と言っている。「いま、あなたにそれが見えるかどうかは分からないけれど、仏様はいつでも世界を照らしている。そして、お念仏する中で、それに気づいてほしい」と言っている。お先真っ暗じゃないのだよと言ってる。

 今、日常では「この先日本はどうなるんだろう、私はどうなるんだろう」という漠然とした問題について、何となく「未来は暗いんじゃないか」という感覚を持つことがあります、正直言って。少子化が進むし、給料は上がらないし、何だか政府も信用して「俺の税金、頼んだぜ。よく使ってくれよな」と言えないような感覚。でもその中でもこの言葉が変わらずに、ある。戦争中だって戦前だって、鎌倉時代にだってあった。これは大事にしなきゃいけないと、改めて思うのです。

 では、その暗くなりつつあると感じている世の中にいる自分が、「お念仏する」とは何か?改めてそのことを自分が(主体的に)捉えていなければならないんじゃないかと思うのです。法然上人は、「お称えするという行為が、その人の心を整えてくれる」と仰っていますけれど、自分の心はどう整っているのか?整っていくのか?その見通しは自分でつけなきゃならないと痛切に感じるのです。

 「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様、自分の一大事(死んだらどうなるのか)についてはお任せします。私の直面する一番の問題について、頼みます」という意味と解釈しています。そして、そう言える自分とはどんなものか。「自分のできることはやりますから。やりつくしますから」だろうと私は考えます。自分でできることをやり尽くさずに、「自分は余力あるけれど、頼んだ」とは言えないのです。「人事を尽くして天命を待つ」と言いますけれど、人事を尽くさずして天命は待てないのです。しかも待つのは結果のわからない天命ではなく、阿弥陀様の本誓。「生死ともに患いなし」と法然上人がおっしゃったのは、このことではないかと受け止めています。

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