素直さとは

 最近、この言葉がちょっと気になったので深掘りしてみます。

 まず「素直なことは、いいことだ」とプラスの評価をされていることは皆さん共通だと思います。「素直になりましょうよ」というのはよく聞くアドバイスです。自分自身が素直でありたい、と考える方も多いでしょう。…って、「素直でない」というと「ひねくれている•意固地…」になりますから、「自分がそうである」と思う人は稀な筈です。

 さてしかし、「素直であること」は一筋縄ではないと感じるのです。素直であること、が「何に対して」であるかがブレているからです。

 私の感覚では、「飲めと言われて素直に飲んだ」の世代ですから「他人に言われた事に対してどのように振る舞うか」が素直という言葉に含まれていました。しかし現在は、「自分に対しての態度」としてこの言葉が使われるているのです。ネットで「素直とは」を検索すると、「他人の意見に左右されず自分の気持ちに正直である」を素直な人と評しています。

 自分と他人は違う人間なので意見が異なることは自然なのですが、その場合「素直になる」とは「どちらの思いの通りにすべきか」という問題を生んでしまうのです。損得で割り切れるならともかく、「どちらが自分のためになるのか」は、未来の話ですし難しいものです。

 坊さんとしての私の記憶からは、「瓶から瓶に水を移すように、そのままそっくり受け取れ」と言われたのを思い出します。修行の時です。それは明らかに「他人から伝えられたものを」素直に受け取れ、という意味でした。ビジネス哲学でも「自分の至らなさを認めて受け入れる」のが素直さの功とされています。

 ところが、いつ頃からか「自分の気持ちに素直に(心のままに)行動することがよい」という価値観が喧伝されるようになりました。映画などでも起承転結の「転」の部分で「縛られた自分が解放される」的な展開をよく見かけます。

問題は、それが単純な、切り離されたメッセージとして独り歩きしている事にあるように思います。「だって、殺してみたかった(から実行した)」というのは極端な例ですが、「だって想像と違ったから(退職した)」「どうしても欲しかったから(盗んだ)」などに繋がっているような気がするのです。

 こういった行動は「勝手•わがまま•迷惑」と評されながらも「だって本心からそうなんだ」を持ち出されると、対抗手段は「法律で」「契約で」というお堅いものになっていくのでしょう。実際、現代のギスギスした感じと「自分の心にこそ忠実」にはつながりがあるように思えるのです。
 そうすると、過去に先輩方から指摘されたようなこと、そして「他人の言葉に素直であれ」は、問題を大きくしないで納める知恵だったのかも、と思います。「お前さん、そんな馬鹿なこと言うんじゃないよ」「そうですね…先輩の言う通りかも。」が成り立っていた。

とすると…「平等意識」の一つの現れなのかも知れないね。先輩とか親は「自分より人生経験が豊富で導いてくれる人」という関係じゃないんだろうね。ただ、そういった価値観の中で「仏様はこう言っている」はどのように扱われるのかな。自分と先輩は「同じ人間」だとしても、仏様は明らかに異なる存在だからね。むしろ「俺も先輩も同じ」だからこそ「仏様の言葉」が輝いてきてもいい気がするんだが…どうだろうか。いつの日か「平等感」と合わせて考えてみようか。

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