行の向き

 本日の年回忌のあと、お話で「教行信証」について触れました。こちら浄土真宗の親鸞聖人が著されたものです。こちら元の著名としては『顕浄土真実教行証文類』で6巻よりなるのですが、それぞれが「教の巻」とか呼ばれているのですね。

 それぞれの内容には全く触れなかったのですが、「教えを聞き、行じてみて、信じて自ら保証する」というプロセスとして触れました(他宗のものなので、扱うのにドキドキします)。

 その中の「行じる」ですが、これは「教えられた通りに信じて行じてみる」と「教えられた通りではなく疑ってかかりつつ行じる」の2種類に分けられると思います。
 では、仏教で言う「行じる」とはどちらか?と問えば、「行じるとは後者の態度である」なのだと思います。信じて行うのではなく、行った結果として信じられるようになる。

つまり、「教わった通りに頭ごなし(行なし)に信じろ」ではなく、あくまで自分の行為を通して信じるようになる」なのだね。

 そうです。教えというのは基本的に言葉ですから、それに対して自分の身体を使った行為があり、その結果を改めて言葉として納得するなら信じられるようになる。そういうプロセスが必要だと言いたのではないでしょうか。

 我々はなんとなく、「昔の人は教えを純真に素直に信じていた」というイメージを持っていますけれど、それはきっと間違いですね。その時その人なりの問題があって、教えと行があって、その結果として信じられるようになっていた、そのプロセスは今と変わらない。

 今は仏教漫画とかがあって、えらいお坊さんが「〜〜なのです」と言うと「おおーっ!!」と民衆が感動した…とかの描写がありますけれど、それは彼らの信心に至った描写ではない、ということですね。オッと、その辺りは掘っていくと深そうだからやめておきましょう。

 それよりもね、我々僧侶としても、「南無阿弥陀仏とお称えすれば云々」を「疑ってくださって結構ですよ。その気持ちのままで行じてみてください」とお伝えする力が必要なのでしょうね。「俺が説得する」というよりも「分からないけれど、やってみよっかな」と思っていただくことが大切なのでしょう。

 そういえば、昔は「南無阿弥陀仏と口に称えることの、どこが行なのか?」という論争もあったようですね。それについては、また何かの時に。

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