目的と手段

目的と目標と手段の区別をしましょう…などと始めると、何だかビジネス指南のように見えるかも知れないのですが、ちょっと触れておこうと思い、記事にしました。

 きっかけは、「お坊さんに相談しよう」のhasunohaサイト。いろんな問答に目を通していると、自ずと「現代人の物の考え方」が見えてくるのですが、「目的と手段を固定しているがゆえに苦しんでいる」人が多いように感じます。「私のイライラを解消するために、あの人を何とかしたい」といった感じです。

これは分かりやすい例で、岡目八目で俯瞰してみると「他人を変えるよりも自分が変わるよりない」と、「目的達成のために、手段を柔軟に考えては?」という筋道が立つのですが、どうも現場で渦中にいると、なかなか難しいようです。

 また、「〜にはどうすればいいですか?」という「やり方(方法)を問う」ものも多く、「やり方次第で何とかなる」と気づいている?人も多いとは思うのですが(そういう問答は、また特有の傾向があったりします)。そこで思い出すのがお釈迦様のお名前。「シッタールダ」とおっしゃいますが、これは「目的を達成する」という意味なんだそうです。

いちおう、wikipediaでは「これは出来過ぎではないか、古い経典にはそんなこと書いてないから、後から伝説化のひとつとして付いたのではないか、とも言われている」。一応知っておいてね

 「目的」に絞って生涯を辿ると、確かに「先達に教えを乞う→だめ」「苦行する→だめ」「座禅瞑想する→おさとり」ということで、「目的はブラさずに方法を変えていった」ことは確かです。「どうすれば、悟りがひらけるのだろうか」という問題意識(目的)は変えていない。方法には拘らない。それが逆に「目的を」というお名前になったのではないかと思うほどです。

つまり、シンプルなはなし「目的を明確に持って、方法を自由にした生き方」自体が仏教的ということなんだろうか。いや、そうなんだろう。

 それゆえ、「仏教には八万四千の法門あり」とかになるのでしょう。まさしく「自分が取り組みやすい道で行きなさい。ただ目的は明確にね」で、振り返って「自分がどんな人間なのか」という自己認識が大切なのだろうと。浄土宗で言うならば、「自分は煩悩の多い凡夫だから、この世でのお悟りは難しいだろう。だから極楽往生という目標(目的に繋がる指標)を立てて、そこへ向けて自分のできることをしよう」となるわけです。

 ちなみに、お釈迦様が「目標」として挙げておられるのは「八正道」なのだろうと思います。名前だけ挙げると「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」となります。これらは何れも「我執を離れて」がキーだと思いますが、たぶん「物事をありのままに見る」ことが仏教の瞑想ではないか…と捉えています。

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