おさがりを
最近ではあまり耳にしなくなったかも知れませんが、私たちは基本的に「仏様にお供えしたものを、おさがりする」と思っています。お客様がお持ちになったお土産などは、まずお仏壇にお供えして、それから「おさがり」で頂戴する。ご法事などで「ご先祖様にお供えしたもの」をおさがりするのも、同様の感覚です。
そして、仏様の「お霊膳」は、「等得」として池の鯉たちへおさがりします。写真はその時の様子です。
「等得」というのは、昔は「当得」=「まさに今、手に入れました」と書いたそうですが、「等しい」という字は平等性が出てよいですね。それも、「人間も鯉も、同じように仏様からおさがりしていただく」という見方ができるのですから。
元々は、お坊さんの集団について「誰も差がなく平等に」だったんだろうね。それが餓鬼を含め一切の「食べて生きているものたち」の平等へと広がったと。
私がこれを作法として経験したのは修行時代でした(配膳されたご飯から、少し取って自分以外の生き物に供養する)。詳細に「正式な」作法はいま失念していますが、「自分の分から改めて提供する=他者のために何かを行う」という捉え方に感心した覚えがあります。
まったく、「食べて命を長らえる」というのは、「誰かの幸せにつながれかし」でありますけれど、とてもシンプルにそれを実現しているのが「等得」であると思います。
意味が先か?作法が先か?は面白い思考の試みですが、「その時代や本人の感覚にあった意味を見出せば良いのではないか」と思いつつ、集まってくる鯉たちに「ほら、召し上がれ」と今日もお下がりしてきました。