見て欲しい

 そんなにもして、見て欲しいんだ…先日、テレビで「代理ミュンヒハウゼン症候群」のことを知り、思いました。

定義は?

周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり、自らの体を傷付けたりするといった行動が見られる。1951年にイギリスの内科医リチャード・アッシャー英語版)によって発見され、「ほら吹き男爵」の異名を持ったドイツ貴族、ミュンヒハウゼン男爵にちなんで命名された。(wikipediaより)

ふむふむ

これは、元となった「ミュンヒハウゼン症候群」の説明でしょ。「代理〜」というのは「病気や傷」が自分ではなく他者で、自分は「それを甲斐甲斐しく世話することで同情を買う」のが特徴だね。関心や同情を引く、という目的は同じだけれど、手段が少し入り組んでいるんだ。

 「行動の目的は4つある。①何かを得る、②何かから逃れる、③注目を得る、 ④感覚刺激を得る」と言われますが、この③注目を得る、ということが人間にとって非常に大切だ、という事ですね。定義によると「関心や同情を引く」という目的のために、非常識な事をやっちゃう、という訳です。

 今時の言い方であれば、ごく軽くは「盛ってる」「大袈裟」という風になるでしょうか。でもそれが、エスカレートするとしたら…「本当に?だったら見せてみろ!」を経て、「見て欲しい」という煩悩と、「見てもらっていない」という現実とののギャップが大きくなる故だろうと思います。まぁ、「欲しい」とい気持ちの方は煩悩ですから個人差や状況差がめちゃくちゃ大きいでしょうけれど。

 そこで思い出すのは、昔から言われる「お天道様は見てござる」あるいは「ご先祖様が見守ってくださる」ということです。「お天道様」は、「誰も見ていないと思ってもバレてるよ」的な、悪をお見通しといったニュアンスがありそうですけれど、「ご先祖様」の方はもっとフラットに、「是々非々」で見てくださっているという感じがあります。

お坊さんに人生相談しよう、の「hasunoha」でも、家族などを喪ったあと、「でも極楽から・天国から見ててくれる」と思える人と、そうでない人(もう誰も見てくれない)では、「自分は生きていける」という安心感に差があるように思います。朝起きて、お仏壇に手を合わせる機会がある人は、一日一回「見ててもらってる」と感じられる。その積み重ねは大きいと思います。

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